「島津義弘」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「島津義弘」の死に際とは?日本の人物

島津義弘は戦国時代にあって、屈指の猛者として知られる人物です。

その晩年と最期は、どのようなものだったのでしょうか。

島津義弘とは?

島津義弘はの父は薩摩の守護大名であった島津高久で、次男として誕生しました。

戦が上手いことで知られ、参加した合戦では数々の武功を打ち立てています。

最も島津義弘という人物を表しているのが「木崎原の戦い」です。

300という少数で、3000もの大軍を打ち破った戦いとして知られています。

豊臣秀吉の政権下では、2度の朝鮮出兵に参戦しました。

そこで勇猛果敢な戦いぶりを見せ、敵からも恐れられていたといわれています。



島津義弘の晩年

島津義弘は、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにおいて西軍側に組しました。

西軍が徳川家康率いる東軍に敗れたのは周知の事実です。

戦いに敗れ薩摩に戻った島津義弘は徳川方との争いに備えますが、その一方で和平の道も探っていました。

徳川家康は島津家を討伐するために兵を送りますが膠着状態が続き、結局和平交渉を仲介した井伊直正らの尽力もあって家康は討伐軍を撤退させます。

島津家は改易を免れることができました。

本領は安堵され、家督は息子である忠恒に譲ることとなります。

その後、義弘は大隈の加治木に移り、隠居して後進の育成に力を注ぎました。



島津義弘の最期

島津義弘が亡くなったのは、元和5年です。

享年は85で、当時としては非常に長生きしました。

ちなみに兄である島津義久も79歳で亡くなっています。

長寿の家系なのかもしれません。

高齢であったこと考えると、老衰による最期だったと思われます。

島津義弘にまつわる逸話

関ヶ原の戦いにおいて島津義弘は西軍に加勢しましたが、戦場で自ら積極的に戦おうという姿は見せませんでした。

本当は東軍に加勢するはずだったという話もあります。

また、島津義弘が率いていた手勢は少なく、島津家の勢力の大半は薩摩にありました。

関ヶ原の戦いが始まると西軍は総崩れとなり、義弘は戦場に取り残されます。

しかし、義弘が猛者ぶりを見せつけるのはここからで、勇猛果敢な戦いぶりは後世にも語り継がれる程です。

戦場に孤立しながらも、敵の大軍を正面突破するという荒業をやってのけました。

味方に対しても厳しく、どうせ討たれなら後ろからではなく前に向かって討たれろというような言葉を残しています。

多くの兵が命を落とす壮絶な戦いでしたが、「島津の退き口」として今も語り継がれています。

関ヶ原の戦い後

島津義弘は西軍に参加しますが、島津家は処分を免れました。

島津家の兵の大半は関ヶ原の戦いに参加していないというのが理由です。

義弘が参戦したのは個人の勝手だという建前で決着しますが、徳川家康としては島津家と争って長期戦になり他の不満分子が参戦することを恐れたからと言われています。

まとめ

島津義弘はその生涯で、数多くの武勲をたてています。

その戦に彩られた人生とは異なり、晩年は穏やかなものでした。

若者の教育に力を注いで静かに亡くなっています。

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