金城哲夫は、特撮テレビドラマ・ウルトラマンシリーズを手掛けた人物です。
金城哲夫の死に際について紹介します。
金城哲夫とは
金城哲夫は沖縄県南風原町で子ども時代を過ごし、中学卒業と同時に上京しました。
大学時代に円谷英二と出会い、円谷が主宰する研究所に通うようになります。
特撮映画の脚本家として知られる関沢新一から指導を受け、脚本家の道を歩み始めます。
1962年にTBSのテレビドラマ「絆」でデビューしました。
その後、円谷プロダクションに入社しウルトラマンシリーズの制作に携わります。
金城が手掛けたウルトラQやウルトラマン、怪獣ブースカ、ウルトラセブンは大人気となり、世に怪獣ブームを巻き起こしました。
金城哲夫の晩年
金城哲夫は脚本家としての仕事だけではなく、他の脚本家や監督、プロデューサーのまとめ役も担っていました。
シリーズ全体の構成を考えたり、脚本家にプロットを伝えるといった仕事もありました。
しかし、大人向けの特撮ドラマを制作すると視聴率が低迷し、円谷プロでの発言力は徐々に低下していきます。
そして、1969年に円谷プロを退社しました。
退社後は沖縄県に帰り、沖縄芝居の脚本を執筆したりラジオのパーソナリティとして活躍します。
金城哲也が円谷プロの退社を決断した背景には、沖縄を題材にした作品を執筆したいという思いがあったからだとされています。
1967年に沖縄県出身の作家である大城立裕が、「カクテル・パーティー」で芥川賞を受賞したことにも大きな影響を受けました。
沖縄に戻った金城哲夫は、故郷の歴史や文化について学びます。
そして「佐敷の暴れん坊」や「一人豊見城」「風雲!琉球処分前夜」といった沖縄芝居の脚本を執筆しました。
「佐敷の暴れん坊」は、琉球王朝を築いた尚巴志の姿を描いた作品です。
金城哲夫の最期
金城哲夫は沖縄に帰郷してからも精力的に執筆活動を行っていましたが、不慮の事故に見舞われてしまいます。
泥酔した状態で2階にある書斎に入ろうとしたところ、足を滑らせてしまい転落しました。
病院に運ばれましたが、3日後に脳挫傷によって亡くなっています。
享年37という若さでした。
金城哲夫をめぐる逸話
金城哲夫は、芥川賞を受賞した作家の大城立裕と交流がありました。
初めて大城に会った時に、大城が沖縄だけにいて芥川賞を受賞したことがショックだったと語ったといいます。
そして沖縄に戻ったら、自分は直木賞を目指すと宣言しました。
金城の作品の核となるのは、薩摩の支配や琉球処分によって翻弄される沖縄の姿です。
故郷に深い思い入れがあったことが分かります。
大城は金城の才能を評価していて、あのまま生きていたら立派な直木賞作家になっていただろうとインタビューの折に語っています。
まとめ
金城哲夫はウルトラマンシリーズの制作で活躍しますが、晩年は沖縄に帰郷して沖縄芝居の執筆やラジオのパーソナリティを務めていました。
不慮の事故によって2階から転落し、37歳という若さで亡くなります。