「前田利益」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「前田利益」の死に際とは?日本の人物

ここ30年で急激に知名度が高くなり、人気武将になったのが“かぶきもの”「前田利益」です。

このかぶきものがどんな晩年を過ごし、どんな最期を遂げたのかわかりやすく説明していきます。

「前田利益」とは?簡単に説明

1980年半ばまで前田利益という人物について知っている人はよほどの歴史愛好家しかいなかったと言って過言ではありません。

また前田利益と言う名前はピンとこなくても「前田慶次郎利益」「前田慶次」の名なら即座に解る方も多いはずです。

隆慶一郎氏の小説を漫画化した『花の慶次 -雲のかなたに-』で『北斗の拳』の原哲夫氏がケンシロウ並みの超人として描いたことで人気を博し、このイメージが世間一般に定着することになりました。

その反面謎が多いことでも知られている武将でもあります。



「前田利益」の死に様

関ヶ原の合戦前に上杉家に仕官し、その後上杉家が米沢に転封される際に食い扶持を与えられ晩年は会津で過ごしたことになっています。

しかし死に際に関しては史料によってまちまちでどれが真実かは不明のままです。

・慶長10年11月9日に大和国刈布で死没。

・慶長17年6月4日に出羽国米沢堂森の肝煎太郎兵衛邸で病没。

・上杉定勝に代替わりした1623年以降に米沢で死没。

死没年だけでも1605年~1623年以降と20年の違いがあり、場所も畿内と出羽国に別れ、さらには米沢と会津で亡くなったとする史料が存在しています。



「前田利益」の死に様の信憑性

信憑性はどれも一長一短というべきなのが現状です。

『前田慶次殿伝』や『加賀藩史料』では保養を装って大和国に滞在するも、たびたび京都で悪戯による騒動を引き起こしたため、前田利長により蟄居され大和の刈布に滞在し、1605年12月18日に亡くなったと言われています。

前田利家、利長とはそれぞれ不仲だった事や利益の出奔は加賀藩にとって汚点で各種史料が残存していない事、これ以外に大和で亡くなった史料が残されていない事を考えると信憑性は微妙と言えるでしょう。

米沢・死没説は「青地礼幹」の『可観小説』から引用されることも多いですが、他の米沢の各史料と比較すると矛盾点も多々あり、具体的なれど信憑性は不確かだと言わざるをえません。

特に「上杉定勝」の代に亡くなったとする記載は没年を10年程度延びることになる疑問点が挙げられます。

『加賀藩歴譜』や『前田氏系譜』では会津で死没した記載があり、決定的な史料は未だに存在していないのが現状です。

直江兼続は知らなかった?親友・利益の死?

漠逆の友「直江兼続」「安田能元」が利益の死について何も書き残していないのに違和感を感じる方もいることでしょう。

特に『史記』に注釈を入れる間柄だった兼続が利益への回顧なりを残していないのは不自然とも言えます。

可観小説に書かれた通り、上杉家の重臣の二人が亡くなった1622年以降も利益は生きており、定勝が上杉家当主となった1623年以降に亡くなったとすればしっくりくるのですが残念ながら推測の域を出ません。

まとめ

ここ20~30年で急激に知名度の上がった武将であり、出奔した事から加賀藩の汚点として史料が屠られた可能性もあり謎の多い武将であると言えます。

米沢に移って以降は“かぶく”のをやめたと言われていますが、林泉寺の和尚との逸話が残されているように老いても悪戯は止められなかったようです。

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