アーウー宰相「大平正芳」の散り際とは?
この記事では大平正芳の晩年と散り際について解説していきます。
「大平正芳」とは?簡単に説明
故「池田勇人」氏の側近として政治家になり、1964年の東京五輪開催に伴う各種国際行事の裏で、国に混乱が生じない様、癌に罹患した池田内閣の円満な退陣に尽力。
官房長官、大蔵、外務、通商産業各大臣を歴任後に内閣総理大臣に就任しています。
池田氏死去後は「田中角栄」氏に接近、その後田中氏の政敵でもあった「福田赳夫」氏と交わされた約束は「大福密約」と呼ばれ、大きな話題を呼びました。
“アーウー宰相”は自分の発言が日本、世界にどんな波及効果を及ぶのか考え、結論が出たうえで初めて発言していたことによるものでした。
「大平正芳」の晩年
内閣総理大臣就任早々に右翼によるテロ襲撃事件を受けています。
これは国難に立ち向かう事になる大平政権の前途多難な船出を象徴するものとなりました。
成長期を終えた日本の財政問題について、自身がダメ出ししていた赤字国債発行をせざるを得ず、一般消費税導入問題にも言及しています。
自身の一生をかけても財政を建て直すことを宣言していましたが、消費税導入は党内の反発を招くこととなり頓挫。
大平内閣は先駆的な取り組みを掲げていたもの、高度経済成長がまだ身近な存在であった当時の国民や一般的な議員からは革新的な取り組みは受け入れられることはありませんでした。
しかしこれらはのちに「中曽根康弘」内閣の政策に繋がっていくことになります。
在任中にはソビエト連邦のアフガニスタン侵攻、それに伴うモスクワ五輪のボイコットなど外交問題でも難局が待ち構えていました。
国内外で難局と向き合うことになり、その過密日程は大平氏の心身を蝕むことになってしまいます。
「大平正芳」の死に様
1980年6月12日5時54分、東京都港区虎の門病院で死去。
70歳没。
死因は心筋梗塞による心不全によるものでした。
「大平正芳」の死に様の信憑性
就任時こそ“影の田中内閣”と揶揄されたもの、近年いち早く一般消費税の導入を掲げ、財政改革を行おうとしていた大平内閣を再評価をする声は高くなっています。
また没後40年を迎え、当時の秘書や新聞記者の担当が回顧録や回想をしており、臨場感のある記事を読むことができるでしょう。
既に5月の西側諸国外遊では疲弊した大平氏の姿が見られたとされ、帰国後の内閣不信任案はその疲弊に輪を掛けることとなりました。
80年5月30日の昼食時に「田村元」氏が大平氏の顔が死に顔と叫んだのは語り草。
同日午後18時30分に帰宅後、怠さを訴えると日付の変わる頃に虎ノ門病院へ緊急入院しています。
元々心臓が良くなくニトログリセリンを服用していたもの公表はされていませんでした。
入院して2日程で症状は軽減。
しかし12日未明にうめき声を発し、婿の「森田一」氏が駆け寄った時には意識喪失。
公表された時間より早く亡くなったとも言われます。
まとめ
1980年6月12日5時54分、港区虎ノ門病院で死去。
70歳没。
死因は心筋梗塞による心不全でした。
娘婿で秘書官ならびに後継者でもあった森田氏が病室に同宿。
24時間随伴し、深夜の心筋梗塞発症時にも傍にいたそうです。
また5月30日に田村氏が指摘した死相の件は国会図書館等に保存されている同日の夕刊の写真で確認可能。
心臓に不調を抱えていましたが、当時は公表されることはありませんでした。
国内外での過密日程が命を縮めた要因だと言われています。