役者冥利の舞台上での死?それとも?
市川團十郎 (初代)の晩年と最期とは?この記事では市川團十郎 (初代)の晩年と最期について解説していきます。
「市川團十郎 (初代)」とは?簡単に説明
歌舞伎における屋号の始まりといわれる成田屋は市川團十郎 (初代)の成田不動明王山を上演を機に広まっていきます。
また歌舞伎の見得を切る行為は元禄見得と呼ばれ、後世に伝わっていきました。
またいわゆる荒事芸を導入、立役で演じたことが爆発的な人気を博したことにより、現在の市川家の地位を確立させたと言っていいでしょう。
14歳の時に市川海老蔵、16歳の時に市川團十郎の名前で舞台に上がっており、名前も後継されていくこととなりました。
「市川團十郎 (初代)」の晩年
歌舞伎における荒事芸を完成させて、江戸では爆発的な人気を確立させたもの、晩年の役者生活が決して順風満帆だったわけではありません。
1693年には上方・京都で舞台に出演したものの人気は芳しいものではなく、1年あまりで撤退を余儀なくされています。
しかし実子も市川九蔵(初代)として11歳で中村座で初舞台を踏むなど後継者も育ちはじめ、江戸での人気は盤石。
明るい将来が待っているように思われましたが大きな落とし穴が市川團十郎 (初代)を待っていました。
「市川團十郎 (初代)」の死に様
1704年3月24日、元禄17年2月19日のことでした。
江戸三座の1つである市村座で「移徒十二段」の佐藤忠信役を演じていた時のことです。
舞台上で市村座の頭取でもある生島半六に刀で脇腹を刺されるとその場で亡くなってしまいました。
享年45のことでした。
「市川團十郎 (初代)」の死に様の信憑性
河原者として地位は低かったものの、荒事芸の第一人者として江戸の民衆には絶大な人気があっただけに、事件は市中で語り草となりました。
しかし謎も多く確定しているのは加害者である生島半六と楽屋で口論をしたことが目撃されたこと。
そしてその後半六は楽屋から舞台へと駆け上がり、クライマックスで見得を決めている團十郎の脇腹を刀で刺したことでしょう。
楽屋でのもめ事が半六の動機となったのは間違いありませんが、舞台上で捕縛されたあとも黙秘を貫いて、 獄中死してしまいます。
このため真相は闇に消えたままとなりました。
有力な説としては半六の義理の息子に虐待を加えていたことからの怨恨だと言われています。
まとめ
元禄17年2月19日、1704年3月24日江戸市村座で移徒十二段の公演中、舞台上で大見得を決めている時に生島半六に脇腹を刺され、そのまま死亡しています。
享年45。
半六の動機は怨恨によるもので義理の息子を團十郎が虐待していたからだとされます。
実証する文献などは見つかっていませんが、現代に至るまでこの説以外に有力な話がないのも事実です。