この記事では、「猪俣公章」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「猪俣公章」とは?
 猪俣公章とは福島県出身の作詞家及び作曲家で、大ヒット曲を多数生み出しています。
 1964年に「僕の手でよかったら」という鈴木やすしの曲で、作曲家としてデビューしました。
 1966年には森進一のデビュー曲「女のためいき」を作曲し、大ヒットしています。
 森進一にはその後も「おふくろさん」や「港町ブルース」等のヒット曲を提供しました。
 代表作にはその他にも、美空ひばりの「別れてもありがとう」や藤圭子の「女のブルース」等があります。
「猪俣公章」の晩年
 猪俣公章は晩年も、作曲家として活動していました。
 内弟子には坂本冬美やマルシアがおり、住み込みで歌手として育成したといいます。
 坂本冬美が演歌歌手としてデビューするきっかけをつくったのも猪俣公章です。
 NHKの「勝ち抜き歌謡天国」で歌唱指導を行っていた猪俣公章の勧めで、歌手を目指し上京することになりました。
 マルシアもブラジルで開催された歌謡選手権で審査員を務めていた猪俣公章の目に止まり、来日することになります。
 マルシアからは日本の父として慕われていました。
 坂本冬美には多数の曲を提供しており、「あばれ太鼓」や「祝い酒」「火の国の女」などがあります。
 マルシアのデビュー曲「ふりむけばヨコハマ」も猪俣公章が作曲しました。
 また、里村隆一や冬樹かずみといった後進の育成にも熱心だったようです。
「猪俣公章」の死に様
 猪俣公章が亡くなったのは、1993年のことでした。
 死因は肺がんです。
 享年55でした。
 猪俣公章は長く独身でしたが、53歳の時に19歳年下の女性と結婚しています。
 子どもも生まれ幸せな結婚生活を送っていましたが、わずか2年で亡くなってしまったのです。
「猪俣公章」の死に様の信憑性
 猪俣公章は生前、坂本冬美の歌手活動を全て取り仕切っていました。
 自らの死期を悟ったからか親交のあった小西良太郎に坂本冬美を託しています。
「ずっと見ていてくれ。
 凄い子なんだから。
 きっと大きくなる」と言ったといいます。
 小西は何度も断りますが、猪俣の熱意に押されて引き受けました。
 猪俣公章の死後、音楽プロデューサーとして手掛けたのが坂本冬美の大ヒット曲となる「夜桜お七」です。
まとめ
 猪俣公章は晩年、作曲活動のかたわら坂本冬美やマルシアといった歌手を育てることに熱心でした。
 しかし、肺がんのため55歳で亡くなっています。



