吉川広家は毛利氏の武将の一人で、天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦いにおいて徳川方に内通した人物として知られています。
その晩年と最期がどのようなものだったのか紹介します。
吉川広家とは?
吉川広家は、毛利家の家臣である吉川元春の三男として生まれます。
父と兄が相次いで亡くなったため、吉川家の当主となりました。
吉川元春の父は毛利元就で、吉川家の養子となっていました。
そのため広家は、毛利宗家の当主である輝元とは従弟の関係にあります。
父と同様に毛利家を支えることに力を尽くしました。
関ヶ原の戦いでは毛利輝元は西軍の総大将となりますが、広家は東軍の勝利を確信し徳川方と内通します。
結果として東軍が勝利をおさめたので、広家の見立ては正しかっといえるでしょう。
吉川広家の晩年
関ヶ原の戦い後、毛利氏は29万5千石に大幅に減封されます。
萩に拠点を置いて長州藩となりました。
吉川広家には、3万石の岩国領が与えられます。
岩国領の初代領主となり、岩国市の基礎を確立しました。
徳川家康から岩国城を築城することを許されたので、山頂に堅牢な城郭を築いています。
錦川の改修工事を行って平地を造り、城下町を構築したりもしています。
商人のための区画整理を行ったり、領内の統治法を制定するなど、岩国藩の内政に力を入れました。
吉川広家の最期
慶長19年、吉川広家は隠居して家督を嫡男である広正に譲ります。
しかし、隠居したといっても岩国領の実権は握ったままだったといいます。
広家が亡くなったのは寛永2年のことで、享年65でした。
その死因は明確ではありませんが、65歳という年齢を考えると病死と考えられます。
吉川広家をめぐる逸話
関ヶ原の戦いで徳川方と通じたといわれている吉川広家ですが、そこには徳川方との間に毛利家の本領を安堵するという密約がありました。
広家の工作により関ヶ原の戦いでは毛利輝元の3万もの軍勢を出陣させず、東軍に有利な状況が作られました。
それが勝利につながったことは間違いないでしょう。
しかし、関ヶ原の戦い後、毛利家は改易の危機を迎えてしまいます。
徳川家康が密約を反故にしようとしたからです。
広家は輝元は西軍には関わりないと言っていたのに、実際には総大将となっていたことが分かったからです。
そこで家康は毛利領を没収し、そのうちの周防と長門の2国を広家に与えると言ってきました。
それを広家は断ります。
詫びる書状を書き、毛利家の家名を残してほしいと懇願しました。
周防と長門の領土も毛利家に与えてほしいといいます。
それを読んだ家康は、輝元の身の安全を保障することにし減封にはしましたが領土も安堵しました。
周防と長門の領土も毛利家へ与えることにしたのです。
まとめ
吉川広家は、関ヶ原の戦い後は3万石の岩国領の領主となります。
家督を息子である広正に譲った後も、城下町を整備したり統治法を制定するなど内政に尽力しました。
岩国市の基礎を築き上げます。