テレビドラマや映画などの名脇役で有名な古尾谷雅人の死因とは?
妻や子供たちも俳優の芸能一家に何が起こったのか詳しく解説していきます。
「古尾谷雅人」とは?簡単に説明
昭和32年に神奈川県川崎市で生まれた古尾谷雅人こと古尾谷康雅(ふるおや やすまさ)は、昭和から平成にかけて俳優として活躍した人物です。
女優の鹿沼えりを妻に持ち、息子である2代目古尾谷雅人(芸名)と娘の水野快令(れい)もそれぞれ俳優として活動している芸能人一家としても知られており、デビューした際には高藤疾土(たかとう はやと)という名義だった実の息子は後に芸名を父と同じ古尾谷雅人(2代目)に改名しています。
昭和40年代に日活のロマンポルノ俳優としてデビューを飾った古尾谷は、昭和50年代に入るとテレビドラマの役者としても活動を始め、次第に名脇役として評価されるようになっていきます。
若い時から細身のスタイルで、身長188cmという当時の役者としてはかなり大きな体躯だった反面、寡黙で渋めな役柄が多かった古尾谷は、自身の役者としてのイメージを大切にするあまり、バラエティ番組などにはほとんど出演しない昔気質の俳優として知られていました。
その後順調に俳優生活を送っていたと思われていましたが、平成15年3月25日、東京都文京区の自宅で縊死により45歳という若さで死去しています。
「古尾谷雅人」の死に様
平成15年3月25日、古尾谷雅人は自宅の寝室で死亡しているところを妻である鹿沼絵里に発見されています。
いつも夫婦で使用していた寝室の中で発見された古尾谷は、天井に括り付けられた鉄パイプに空手の黒帯を結びつけ、首を吊っていたと言います。
188cmの長身を誇る古尾谷の足はそのまま伸ばすと床についてしまうサイズだったために、発見時には膝をくの字に曲げて、足が床に届かないかっこうで縊死していたそうです。
室内には遺書などは残されておらず、争った形跡などもないことから警察は自殺と断定しています。
「古尾谷雅人」の死に様の信憑性
90年代にはテレビ業界でトレンディドラマブームが始まりますが、古尾谷雅人のような昔気質の役者は役柄にこだわるあまり少しずつその波から漏れるようになっていきました。
80年代にバイプレイヤーとして評価され、数多くのテレビドラマなどに出演していた古尾谷は、当時1億5000万円で自宅マンションを購入し、ローンなどで毎月200万円ほどの支払い義務があったそうです。
仕事量が激減していく中、毎月の利子さえも支払えないような状況が続き、最終的には3億円もの借金を抱えることになった古尾谷は、さらにこの時期、実父の遺産相続を巡り継母との間で係争中でもありました。
仕事がうまくいかず借金問題も解決できない状況の中、溜まっていくストレスにより飲酒量が増え、次第に妻に暴力をふるうようになっていった古尾谷は、少しずつうつ状態に入っていくようになります。
このころ妻や息子たちに「舞台で死んだら役者としては本望」、「自分は必要のない人間」などと頻繁に口走っていたと言います。
「古尾谷雅人」の小ネタ等
古尾谷雅人が誕生したのは川崎市の名のある旧家でしたが、幼少時に両親が離婚したことにより実の母との生き別れています。
その後、父が再婚し迎えた継母とは関係がうまくいかず、少年時代は苦悩しており、晩年、この継母と裁判で争うほど関係がこじれ、幼少のころの心の痛みやストレスがぶり返していたのかもしれません。
まとめ
古尾谷雅人は昭和から平成にかけて活躍した名脇役ともいえるバイプレイヤーです。
彼が演じた数多くの渋い役柄は今でも多くのファンの胸に焼き付いていることでしょう。