「早稲田大学」の創立者であり、攘夷志士から内閣総理大臣を2度も務めた「大隈重信」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「大隈重信」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「大隈重信(おおくま しげのぶ)」とは?簡単に説明
「大隈重信」は第8代、及び第17代内閣総理大臣を務めた人物であり、「早稲田大学」創設者としても有名です。
佐賀藩の上家に生まれ、幕末の時期は攘夷志士として奔走しました。
「明治維新」後は、外国事務官判事として長崎に赴任します。
後に「参議」や「大蔵省」の事務総裁にも就任し、「地租改正」などの内政改革や「富岡製糸場」の設立など殖産興業の推進を行い、日本の近代化に大きな貢献を果たしました。
「明治十四年の政変」により、一度は政府を追われるも、その後は伊藤内閣や黒田内閣、松方内閣で「外務大臣」を歴任します。
「大隈重信」の晩年と最期
明治31年(1898年)に第8代内閣総理大臣に任命され、「第一次大隈内閣」が発足するも、内部分裂や外交の失策により同年、総辞職となります。
その後は、一旦政界から離れて、「早稲田大学」の初代総長へと就任しました。
大正3年(1914年)に「シーメンス事件」と呼ばれる賄賂事件を受けて、当時の内閣総理大臣「山本権兵衛」が辞職すると、「大隈重信」が後任となり「第二次大隈内閣」が発足します。
この間に「第一次世界大戦」が起こり、日本は「日英同盟」の下、ドイツに宣戦布告を行い、参戦しました。
また、中華民国に対して、権益の継続や譲渡に関する「対華21カ条要求」を提示しました。
大正5年(1916年)の内閣総辞職に伴い、政界からは完全に引退します。
大正10年(1921年)の9月より、風邪気味になり、静養するも腎臓炎や膀胱カルタも発症し、衰弱していきました。
そして、翌大正11年(1922年)の1月10日、4時38分に、早稲田の邸宅にて享年85歳で死去します。
「大隈重信」の死に様の信憑性
死因は腹部のガンと萎縮腎、もしくは胆石症とされています。
「早稲田大学」創立にまつわるエピソード
「大隈重信」と「慶応義塾大学」創立者としても有名な「福沢諭吉」は当初、お互い仲が悪かったそうです。
ところが、ある会合で意気投合したことがきっかけで、ふたりには深い絆が生まれました。
その「福沢諭吉」の勧めもあって、「東京専門学校(後の早稲田大学)」の創立につながったと云われています。
まとめ
「大隈重信」は第8代、及び第17代内閣総理大臣であり、「早稲田大学」の創立者です。
佐賀藩の攘夷志士でしたが、明治維新後は政府の中枢となり、内政改革や日本の近代化を推し進めました。
2度の内閣総理大臣就任後に政界から引退し、大正11年(1922年)1月10日の4時38分に邸宅にて死去します。
享年85歳でした。
死因は腹部のガンと萎縮腎、もしくは胆石症とされています。