この記事では、「箱崎晋一朗」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「箱崎晋一朗」とは?
箱崎晋一朗とは岩手県出身の歌手で、女心をくすぐるような甘い歌声が魅力です。
熱海グランドホテルの専属歌手としてステージに立っていましたが、1967年に自主製作した「熱海の海」でデビューします。
当時、熱海は企業の団体旅行先として人気がありました。
熱海のご当地ソングとしてヒットし、人気歌手の仲間入りを果たします。
その後はヒット曲が出ず低迷しますが、1974年に「熱海の海」のB面だった「抱擁」を再びリリースして注目されました。
「箱崎晋一朗」の晩年
箱崎晋一朗は一度は人気歌手となりますが、晩年はヒット曲に恵まれず歌手活動は順調ではありませんでした。
箱崎晋一朗の「朗」の字を「郎」に変え「箱崎晋一郎」と名乗っていたこともありましたが、再び元の「箱崎晋一朗」に戻しています。
歌手としてはなかなか波に乗ることができず、キャバレーを回って生計を立てていたといいます。
副業としてアクセサリー店を営んだこともありますが、経営が悪化して倒産しました。
そして、晩年には歌手活動に見切りをつけることを決断します。
ディレクターに転身することにしたのです。
歌手最後の曲としてリリースしたのは、「東京運河」でした。
プライベートでは、1980年に元ミスいわきの女性と6年の交際を経て結婚しています。
3人の子どもにも恵まれました。
経済的に苦しい時に支えてくれたのが妻だったといいます。
「箱崎晋一朗」の死に様
箱崎晋一朗は、1988年に亡くなりました。
死因は肝臓がんで、享年43です。
がんが判明した時には既に全身に転移していて、末期の状態でした。
その際、余命は3カ月と告げられています。
「箱崎晋一朗」の死に様の信憑性
箱崎晋一朗は亡くなる際、妻に「悔しい」と言ったといいます。
死因は肝臓がんでしたが、肝臓がんは自覚症状が乏しいため早期発見が難しいとされます。
肝臓は沈黙の臓器と呼ばれることもあります。
歌手活動最後にリリースした「東京運河」は、ヒットの兆しが見えていました。
愛する妻子がいることを思えば、亡くなることへの無念さが滲む最期だったと考えられます。
まとめ
箱崎晋一朗は晩年、歌手活動に見切りをつけディレクターに転身することを決意していました。
しかし、肝臓がんであることが判明し、43歳という若さで亡くなってしまいます。