「荒木又右衛門(あらきまたえもん)」とは?
荒木又右衛門の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「荒木又右衛門」とは?簡単に説明
荒木又右衛門は「鍵屋の辻の決闘」と呼ばれる仇討ちで有名な剣豪です。
「鍵屋の辻の決闘」は「赤穂浪士の討ち入り」「曽我兄弟の仇討」とともに日本三大仇討ちと呼ばれる事件の一つです。
この事件は、岡山藩士の渡辺数馬が弟の仇である同藩士・河合又五郎を仇討するために姉婿の荒木又右衛門の助成を受けてみごと本懐を遂げる事件です。
この時、実質的に仇討を主導した又右衛門は世間から称賛を浴び、その後、歌舞伎や浄瑠璃などの題材として大衆の人気を集めることになります。
「荒木又右衛門」の死に様
「鍵屋の辻の決闘」で見事本懐を遂げた渡辺数馬と荒木又右衛門はその後、藤堂家に客分として保護されますが、岡山藩から鳥取藩に移封されていた藩主の池田光仲からの要請で2人は鳥取に移り、互いに妻子を鳥取に呼び寄せます。
しかし、又右衛門の妻子が9月に鳥取に到着する前の寛永15年(1638年)8月28日に又右衛門は急死したとされています。
これが事実とすれば享年40歳となります。
しかし、死因は不明で毒殺などの諸説もあるようです。
さらに別の説として、急死したとして実は数馬とともに鳥取城内に匿われていたとする説もあります。
その理由は、2人が仇討した相手の河合又五郎の一派による暗殺を恐れたためというものです。
この説によると、又右衛門は寛永20年(1643年)9月24日に死去したことになっています。
「荒木又右衛門」の死に様の信憑性
鳥取の玄忠寺には荒木又右衛門の墓があります。
その墓石には向かって右側に「荒木又右衛門尉保和生年四十歳」、向かって左側に「寛永拾五戌寅暦八月廿八日」とあります。
このことから没年は定説通りの可能性が高いと言えます。
「荒木又右衛門」の小ネタ等
「鍵屋の辻の決闘」はのちに話が膨らみ、「又右衛門の36人斬り」という斬った人数のみが独り歩きし、36人斬りまでになりますが、実際に又右衛門が斬ったのは2人です。
そもそも、この決闘は数馬側が数馬と又右衛門に加え又右衛門の弟子2人の計4名、一方、河合又五郎側は総勢11名の4対11の決闘でした。
結果は数馬側の4名のうち1名が死亡、又五郎側は11名のうち4名が死亡で、よって又右衛門は4名中2名を斬り殺したことになります。
まとめ
荒木又右衛門の死因は確かなことは分かりませんでしたが、没年はどうやら定説の寛永15年(1638年)8月28日である信憑性が高そうです。