暗愚?「お市の方」の夫で有名な「浅井長政」の父「浅井久政」はいったいどのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「浅井久政」の生涯や最期について分かりやすく解説していきます。
「浅井久政(あざい ひさまさ)」とは?簡単に解説
「浅井久政」は、北近江(現在の滋賀県)の戦国大名であり、浅井氏2代目当主です。
嫡男は「浅井長政(あざい ながまさ)」で、「織田信長」の妹である「お市の方」の夫として有名です。
父・「浅井亮政(あざい すけまさ)」の死後、浅井家の家督を継ぐことになります。
浅井家の2代目当主となった「浅井久政」でしたが、近江南部を拠点とする「六角氏」に従属することになります。
「浅井久政」の六角氏に対する弱腰な外交姿勢に、多くの家臣たちが不満を募らせたと言われています。
その後、嫡男の「賢政(のちの浅井長政)」が「野良田の戦い」で「六角義賢」を退けたことにより、浅井氏は六角氏から独立します。
「浅井久政」は家督を「長政」に譲りますが、家中に対する発言力は維持していました。
定かとはなっていませんが、家督移譲に関しては「浅井久政」が家臣たちに迫られ、なかば強制的に隠居させられたとする説もあります。
このことから、「浅井久政」は記録などにおいて暗愚として扱われていますが、外交政策や内政については現在、評価が見直されています。
当時、浅井氏は「朝倉氏」との同盟関係を「浅井亮政」のときより維持しており、一方で「織田氏」との同盟関係も築いていました。
ところが、その「朝倉氏」と「織田氏」が敵対することになり、浅井氏はどちらに与するかを決断しなければなりませんでした。
もともと「朝倉氏」との同盟に固執し、「織田氏」との同盟には一貫して反対し続けていた「浅井久政」は「朝倉氏」との同盟維持を主張します。
「織田信長」とは義兄弟でもある「浅井長政」は結果的に譲歩し、浅井氏は「朝倉氏」とともに「織田氏」に敵対することになります。
「浅井久政」の最期
天正元年(1573年)、織田軍は浅井氏の本城「小谷城」を攻めます。
織田軍の猛攻に敗北を悟った「浅井久政」は切腹を決意し、「浅井福寿庵/浅井惟安(あざい これやす)」と舞楽師の「森本鶴松大夫」と杯を酌み交わした後、城内にて切腹します。
享年48歳でした。
「浅井久政」の死に様の信憑性
浅井久政が切腹した後、浅井福寿庵が浅井久政を介錯。その浅井福寿庵を森本鶴松大夫が介錯し、森本鶴松大夫は庭で自刃したとされています。
まとめ
「浅井久政」は、北近江(現在の滋賀県)の戦国大名であり、浅井氏2代目当主です。
浅井氏は「朝倉氏」と同盟して、「織田氏」と戦いますが、同盟軍は敗北してしまいます。
後に、浅井氏の本城「小谷城」は織田軍に攻められ、敗北を悟った「浅井久政」は城内にて切腹します。
享年48歳でした。