「赤松政範」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「赤松政範」の死に際とは?日本の人物

侵攻してきた織田軍配下「羽柴秀吉」と相対して散った戦国武将「赤松政範」

彼はいったいどのような最期を遂げたのでしょうか?

この記事では、「赤松政範」と彼の最期について解説していきます。

「赤松政範(あかまつ まさのり)」とは?簡単に説明

「赤松政範」は、戦国時代から安土桃山時代にかけて存在していた戦国武将です。

七条赤松氏であり、播磨国(現在の兵庫県)上月城(こうづきじょう)城主でした。

「赤松政元(あかまつ まさもと)」の次男として生まれ、父と同じく、「西播磨殿」と呼ばれていました。

武勇に優れ、思慮分別や先見の明も持っている傍ら、優柔不断な一面もあったそうです。

天正5年(1577年)に織田軍の「羽柴秀吉(はしば ひでよし)」が播磨に侵攻してきます。

その際、「赤松政範」へ秀吉より最後通牒が送られてきます。

「赤松政範」は家臣と評定を繰り返しますが、織田軍に降るか、毛利家との盟を守るかを決めあぐねていました。

度重なる評定の末、「赤松政範」は毛利家との盟をとり、秀吉軍との交戦を決意します。



「赤松政範」の最期とは?

「羽柴秀吉」は約3万の兵を率いて「上月城」を攻めます。

敗戦を悟った「赤松政範」は、先に妻を刺し殺し、その後、家臣、一族郎党と共に自害しました。

一説よれば、「赤松政範」は介錯をする家臣に、「自分の首を持って織田軍に降伏しろ。

しかし、筑前(羽柴秀吉)殿が降伏を許さないならば、謀略をもって即刻首を討て」
と言い残したそうです。

その後、赤松軍の武将は「赤松政範」の言いつけ通りに彼の首を持参して、「羽柴秀吉」と、秀吉の軍師「黒田孝高(黒田官兵衛)」に助命を乞いましたが、秀吉軍はこれを拒否します。

そして、「黒田孝高」の命によって籠城していた者は皆殺しにされたと伝えられています。

秀吉軍は城内へ侵入するや、城内の兵の首をはねていったそうです。

さらに、城内の女子供を捕えた後、播磨作三国の国境で、子供は串刺しに、女は磔(はりつけ)にして見せしめとしたそうです。



「赤松政範」の死に様の信憑性

赤松政範は妻を刺し殺した後、自害したとされます。

また、黒田官兵衛に助命を乞うたことに関しては、介錯する家臣に述べたと言う説があります。

まとめ

「赤松政範」は、戦国時代から安土桃山時代にかけて存在していた播磨国の戦国武将です。

天正5年(1577年)に「赤松政範」が城主を務める「上月城」を織田軍の「羽柴秀吉」が攻めます。

籠城戦を展開する赤松軍でしたが、秀吉軍優位な戦局から敗戦を悟った「赤松政範」は妻を先に刺し殺した後に、家臣、一族郎党とともに自害して果てました。

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