「浅井長政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「浅井長政」の死に際とは?日本の人物

「浅井長政」の名前は知っているけれど、何をしたかまでは把握していない方も珍しくないかもしれません。

この記事では、織田信長と関係が深い、浅井長政の人生と最期について説明していきます。

「浅井長政」とは?生まれから当主になるまで

浅井長政は戦国時代末期の武将の一人です。

現在の滋賀に当たる近江国を拠点とした浅井家の3代目当主であり、最後の当主となりました。

長政の生まれは1545年。

浅井家の長男として誕生したのですが、その境遇は酷いものでした。

浅井家は当時、六角家との戦いに敗れて従属しています。

長政その六角氏に、人質にとられていたそうです。

名前も六角義賢の一字を継いで賢政とされた他、政略結婚もさせられました。

そのような状況に屈せず、長政は15歳の時に軍を率いて反旗を翻します。

この戦いで見事勝利をおさめた長政は、家臣団の期待を一身に集めました。

結果、浅井家の当主だった父・久政が追放され、長政がその座に就いたのです。

以後は名君として浅井家を導き、敵対関係にあった六角家を衰弱させています。



「浅井長政」の盛と衰

順調に浅井家の勢力を伸ばした長政ですが、織田信長との同盟締結によって、その地位を確固たるものとします。

信長は天下取りの真っ最中で、強敵を相手に奮戦していました。

そこで長政と同盟を組み、互いに勢力を拡大したのです。

この同盟は成功をおさめました。

長政の「長」は信長の一字を取ったものとされる他、信長の妹・お市とは結婚までしています。

盤石に思われた同盟関係ですが、後の織田と朝倉の戦乱で台無しになりました。

この重要な局面で、長政は朝倉との同盟を選び、信長を裏切ったのです。

虚を突かれた織田軍は逃げるほかなく、信長も危ないところを何とか脱出したとされます。

これが、世に名高い「金ヶ崎の退き口」と呼ばれている事件です。

政局を見誤った上に、信長を討ち漏らした長政の失敗は、浅井家滅亡と言う最悪の結果に繋がりました。

信長は態勢を整えるや、猛然たる勢いで朝倉家に襲い掛かります。

長政は武田家と同盟を組んで信長に対峙するも、途中で信玄が逝去するなど、長政は運にも見放されました。



「浅井長政」の死に様

信長の猛攻にあって、朝倉家は以前の恩義もあって援軍を派遣。

しかし、織田軍には手の付けようがありません。

逆襲により朝倉家は、なんと滅亡しました。

孤立無援となった浅井家では、家臣が次々と離反するなど更なる窮地に陥ります。

なすすべもなく小谷城に籠城する長政に対し、信長は投降勧告を行いますが、彼はこれを良しとせず自刃。

これが、長政の最期です。

「浅井長政」の死に様の信憑性

浅井長政の首はさらし首にされた後に薄濃になって食事会で披露されているので、生存説は考えられません。

小谷城攻略の際に自害で間違いないでしょう。

まとめ

浅井長政の苛烈な人生と、その最期について紹介してきました。

朝倉家との同盟を選び、織田を裏切ったのですが、これが逆なら名門として躍進していたことでしょう。

なぜ裏切ったのかは、信長の振る舞いに浅井家の家臣が業を煮やしたなど諸説あります。

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