この記事では、「北原謙二」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「北原謙二」とは?
北原謙二とは大阪出身の歌手で、ジャズ喫茶で歌っていた時にスカウトされ上京します。
「鈴木英治とブルー・カウボーイズ」のメンバーとしてステージに立っていました。
その後、日本コロムビアのディレクターの目に止まり、1961年に歌手としてデビューします。
デビュー曲は「日暮れの小径」です。
その後、「若いふたり」や「若い明日」「ふるさとのはなしをしよう」等のヒット曲に恵まれました。
NHK紅白歌合戦にも出場しています。
「北原謙二」の晩年
北原謙二は、晩年も積極的に音楽活動を行っていました。
全国各地を回って、福祉施設などを慰問していたといいます。
北原謙二のヒット曲である「若いふたり」や「ふるさとのはなしをしよう」等は青春歌謡の代表的な曲なので、昔を懐かしむ世代には特に人気があります。
「ふるさとのはなしをしよう」は、歌手の山本譲二もカバーしています。
北原謙二が慰問活動を行うようになった理由としては、自らが1991年に脳内出血で倒れたことが挙げられます。
左半身が麻痺してしまい、絶望の淵に立たされました。
しかし、懸命にリハビリを行い、3年後に復帰しています。
この際、献身的にサポートしたのが家族でした。
妻の治子は脳内出血で倒れ、リハビリを経て復帰するまでの夫の姿を綴った「二人の絆」という本を出版しています。
復帰後は体に麻痺も残っていましたが、積極的に慰問活動を行い音楽で人々を楽しませてきました。
「北原謙二」の死に様
北原謙二が亡くなったのは、2005年1月26日のことです。
死因は虚血性心疾患とされています。
都内の病院で65歳で亡くなりました。
「北原謙二」の死に様の信憑性
北原謙二の死因は虚血性心疾患で、動脈硬化や血栓などで心臓の血管が狭くなり心臓に酸素や栄養が行きわたらなくなってしまう状態のことをいいます。
1991年に倒れた際の脳内出血も虚血性心疾患も、血管の病気であることは共通しています。
血管が詰まったり、流れが悪くなったりして引き起こされます。
食生活なども関係するといわれていますが、体質的に血管が詰まりやすかったのかもしれません。
まとめ
北原謙二は晩年、脳内出血で倒れ体に麻痺が残りますが、福祉施設を慰問するなどの活動を積極的に行っていました。
しかし、65歳で虚血性心疾患により亡くなっています。