愛洲移香斎は、室町時代の末期に活躍した剣術家です。
陰流の始祖として知られています。
愛洲移香斎の晩年と最期について紹介します。
愛洲移香斎とは?
移香斎というのは法名で、本名は愛洲久忠といいます。
愛洲氏は熊野水軍の生まれと言われており、南北朝時代に三重県にある伊勢に移り住みました。
愛洲移香斎は幼い頃から剣術に優れ、武者修行をしながら腕を磨いたとされます。
弓の修行をし、近江で戦国大名だった佐々木高頼に弓の師として仕えたこともあります。
九州や関東をめぐり、明にまで渡航したこともあったといわれています。
そして36歳の時に陰流を開きました。
愛洲移香斎の晩年
愛洲移香斎が開いた陰流は、日本武道の源流といっても過言ではありません。
兵法三大源流の一つにも数えられます。
愛洲移香斎は晩年、日向国に住んで日向守と称していました。
陰流の極意を息子である小七郎宗通に伝授しています。
小七郎宗通が誕生したのは、愛洲移香斎が67歳の時とされます。
非常に遅くに誕生した子だったようです。
若い頃は諸国をめぐっていたので、妻帯することが出来なかったのかもしれません。
息子の小七郎宗通は常陸国の戦国大名だった佐竹義重に仕えます。
父から受け継いだ陰流に工夫を加え、猿飛陰流に発展させたといわれています。
また、愛洲移香斎の弟子として、上泉信綱がいます。
上泉信綱は、聖剣と讃えられる剣豪の一人です。
愛洲移香斎から教えを受けた陰流を独自に進化させ新陰流を起こしました。
現在では新陰流の方が良く知られており、脈々と受け継がれています。
ただし、上泉信綱の師は愛洲移香斎ではなく息子の小七郎宗通という説もあり、二人の関係ははっきりとは分かっていません。
ただし、新陰流が愛洲移香斎が編み出した陰流を元にしているのは間違いないでしょう。
愛洲移香斎の最期
愛洲移香斎は、87歳の時に日向国の地で亡くなりました。
87歳というと、当時としてはかなりの高齢です。
死因などははっきり分かっていませんが、年齢を考えると老衰であったと考えられます。
愛洲移香斎をめぐる逸話
愛洲移香斎が陰流を開いたのは、日向国にある鵜戸権現に参籠している時に神託を受けたからといわれています。
鵜戸権現は岩屋にあり、そこに37日参籠し刀法の極意を得たとされます。
晩年はその日向国に住んでいました。
一説では鵜戸明神の神職となったともいわれています。
愛洲移香斎の死後
愛洲移香斎の死後、息子である小七郎宗通は佐竹氏に仕え平澤の地を賜ったことから平澤姓を名乗ります。
平澤家では陰流の伝承は途絶えてしまいますが、陰流は新陰流を始めとする様々な流派に受け継がれていきました。
まとめ
愛洲移香斎は、鵜戸権現の岩屋に参籠している時に神託を受け開眼し陰流を開きました。
息子や弟子である上泉信綱にその極意を伝えます。
そして87歳で亡くなりました。
陰流は、新陰流を始めとする様々な流派に受け継がれていきます。