歌川広重は、日本を代表する浮世絵師の一人です。
歌川広重が残した作品は、海外の画家にも多大な影響を与えたと言われています。
その晩年と最期を紹介します。
歌川広重とは?
歌川広重は江戸時代、火消し同心であった安藤源右衛門の子として誕生します。
父母を13歳で亡くし家督を継ぎますが、絵が好きだったため画家を志しました。
火消し同心の職は親戚の仲次郎に譲っています。
浮世絵師であった歌川豊広に入門し、翌年には広重という名を与えられました。
役者絵や美人画、風景画、花鳥図などを描いています。
そして代表作となる「東海道五十三次」を発表し、風景画家としての地位を確立します。
歌川広重の晩年
「東海道五十三次」は、江戸に旅行ブームを巻き起こす程大人気となりました。
歌川広重の名声も高まり、人気絵師として次々と作品を世に生み出していきます。
「近江八景」「江戸近郊八景」「木曽海道六十九」等が挙げられます。
また、晩年には肉筆画も多く描きました。
出羽の天童藩から依頼を受け、数多くの作品を描いています。
歌川広重が天童藩のために描いた作品は数百点にも上ったといいます。
大名から依頼を受ける程、人気絵師としてその名が知られていたことが分かります。
歴史画や戯画、玩具絵、春画、双六など様々な作品を手がけました。
本の挿絵なども行っています。
歌川広重が60代になってから描いた作品には、「名所江戸百景」があります。
生まれ育った江戸の風景を切り取った作品で、2年の間に100枚以上描きました。
歌川広重の最期
歌川広重は、亡くなる直前まで創作活動に励んでいました。
しかし、疫病が流行り、それを患って亡くなったと言われています。
享年62でした。
死因はコレラと伝えられていますが、はっきりしたことは分かっていません。
また、歌川豊国(三代目)とは非常に仲が良く、広重が亡くなった時には豊国が死絵を追悼のために描いたといいます。
東海道五十三次
歌川広重の「東海道五十三次」は、数ある浮世絵の中でも傑作と名高い作品です。
53の宿場町に出発地の日本橋と到着地となる京師を加えた55か所が描かれています。
日本の四季の風景が旅情と共に細部まで生き生きと描かれており、旅行ブームを巻き起こしました。
それまでは風景版画を見て、旅のイメージを膨らませるといったことはありませんでした。
歌川広重の作品にはその土地の名産なども描かれており、人々の想像力をかき立てたのです。
一枚一枚に物語があり、その場に行ってみたいという気持ちを呼び起こしました。
また、歌川広重の作品は欧米でも評価が高く、メトロポリタン美術館にも収蔵されています。
まとめ
歌川広重は火消し同心の家に生まれますが、子どもの頃から絵が好きだったため絵師を志し歌川豊広の弟子となります。
「東海道五十三次」で人気を博し、風景画家としての地位を確立しました。
晩年も精力的に創作活動に励み、62歳の時に疫病によって亡くなっています。