安土桃山時代の盗賊として有名なのが、石川五右衛門です。
武将や大名でない人物で、ここまで有名なのは例外と言えるでしょう。
盗人としては、鼠小僧と双璧をなすと言っても過言ではありません。
今回は、彼の概要と共に壮絶な最期について紹介します。
「石川五右衛門」とは?簡単に説明
石川五右衛門については、実は詳しくわかっていません。
その理由は2つあります。
まず、彼について詳細に記した文献が少なく、少し前までは実在したのかすら疑わしい状態でした。
2つ目は、江戸時代に入って創作物の題材として人気を博した結果、虚実入り混じった情報が散乱することになったためです。
その中から確からしい情報を集めると、石川五右衛門が実在していたのは、まず、間違いがなさそうです。
生まれは1560年前後と曖昧ですが、没年は記録が残っており、1594年の10月か12月とされます。
「石川五右衛門」の所業と捕縛
豊臣秀吉の統治に納得ができず、世直しの念もあった義賊だとの説もある石川五右衛門ですが、史実はどうも異なるようです。
詳細な犯行は不明な点が多いものの、創作に見られるヒーロー像とは違います。
ならず者数十名を引きつれて強盗や追剥などの凶悪犯罪を行い、京都を荒らしまわっていました。
そんな彼にとって運の尽きだったのは、秀吉の逆鱗に触れたこと。
秀吉の持ち物に手を出したとか、余りに非道が目立ったとか所説ありますが、いずれにせよ、秀吉の配下によって捕縛されてしまいます。
「石川五右衛門」の死に様
秀吉の手に落ちた石川五右衛門は、京都の三条河原で釜茹での刑に処させることになりました。
日本史上で最も有名な処刑シーンの一つと言えるでしょう。
この処刑方法は巨大な釜に罪人を放り込んで火にかけ、水または油を熱して死に追いやると言う内容です。
この残酷な処刑において、石川五右衛門は見せしめのために自身の子供と一緒に大釜に放り込まれたとされます。
五右衛門はかなりの長時間、熱湯に耐えたと言われますが、やがて力尽きその生涯を終えたそうです。
ちなみに、この時には彼の母を含む親族や、仲間の数十名も処刑されてました。
「石川五右衛門」の死に様の信憑性
貿易商のペドロ・モレホンが記した書物や、山科言経がしたためた『言経卿記』の記載から、石川五右衛門が親族や仲間と共に処刑されたのは間違いないと考えられます。
そして、いずれの文献にも釜煎りにされた、油で処刑されたとあるため、上記の方法によって死亡したと推測できるでしょう。
秀吉は罪人や敵対者への処刑に関しては残忍な判断を下すことが多いので、このことからも信憑性は高いと判断します。
まとめ
稀代の大盗賊・石川五右衛門の最期を紹介してきました。
釜茹での刑と言う衝撃的な最期で有名な人物ですが、その伝説の多くは創作で、真実の姿ははっきりとはしていません。
小説や落語などでは魅力的な人物として描かれていますので、興味がある方はご覧になってはいかがでしょう。