「前野曜子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「前野曜子」の死に際とは?日本の人物

ジャズやフォークなどで人気を博したペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルである前野曜子は40歳という若さで亡くなっています。

今回は、宝塚歌劇団に在籍していたこともあるこの歌姫の死因に迫ります。

「前野曜子」とは?簡単に説明

昭和23年に東京都中央区で生まれた前野曜子は、ジャズやフォークなどを取り入れた音楽で人気を博したペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルとして知られる人気歌手です。

17歳の時に高校を中退して宝塚音楽学校に転入した前野は、第53期生として宝塚歌劇団へ入団し、同年の星組公演で初舞台を踏んでいます。

その1年後、同劇団を退団した前野は、バンド「リッキー&960ポンド」に加入し、「西丘有里(にしおかゆり)」という芸名で音楽活動を開始します。

その後、昭和46年に「ペドロ&カプリシャス」の一員として活動を始め、ヒット曲「別れの朝」をリリースしたことでその人気を不動のものとした前野は、昭和48年に同グループから脱退します。

その後人気テレビアニメ「スペースコブラ」のテーマ曲を手掛け、その人気に再び火が付きましたが、昭和63年7月31日、心不全により40歳で亡くなっています。



「前野曜子」の死に様

昭和63年に心不全により死去した前野曜子は、当時わずか40歳という若さでした。

アダルトコンテンポラリーのサウンドで人気を博していたペドロ&カプリシャスでしたが、昭和47年9月、ヴォーカルを務めていた前野曜子が過労により倒れてしまい、その後療養生活を送るものの体調は回復せずにそのままグループから脱退しています。

体調の回復に合わせて別のバンドで活動を再開した前野は、以前所属していた古巣のバンドであるリッキー&960ポンドに再加入して新しいアルバムを発表するなど、療養前と同じように音楽活動を続けていましたが、昭和57年ごろから再び体調が悪化したため闘病生活に入っていきます。

その後しばらく音沙汰がない状態が続きますが、昭和63年に心不全により40歳という若さで亡くなっています。



「前野曜子」の死に様の信憑性

昭和48年に人気絶頂期のペドロ&カプリシャスを脱退した前野曜子は、大ヒット曲「別れの朝」により、自身のヴォーカルとしての人気を不動のものとしていました。

しかしながら、上がり続けるグループの人気に反して、前野はこの時期飲酒によるトラブルを度々起こしており、またグループを脱退することになった決定的な理由は、当時恋仲になっていた米国出身の黒人歌手の元に出奔してしまったことによるものでした。

半年後、失恋したことによりアメリカから帰国した前野は、失恋したショックを和らげるために以前にもまして飲酒量が増えていったそうです。

その後、音楽活動を再開した前野でしたが、このころすでに彼女はアルコール依存症に陥っていました。

昭和57年には長年の飲酒が祟ったことで内臓疾患を患い入院することになった前野は、その後5年間におよぶ闘病生活の末に心不全で亡くなっています。

「前野曜子」の小ネタ等

40年間という短い人生を全うした前野曜子は、生前、自身には2度にわたり結婚の機会が訪れていたと語っています。

結婚にはとても興味があったものの、愛する男性から結婚するなら家庭に入れと言われたため、歌を取ってしまった。

というコメントが残されており、さらに「私はステージの喝采から離れられない女なの」というコメントを続けています。

まとめ

ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルとして人気を博した前野曜子は40歳という若さで亡くなっています。

彼女が唄うコブラのテーマ曲や「シークレットデザイアー」は令和時代の現在においても数多くのファンから愛され続け、未だに歌い継がれています。

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