「今川義元」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「今川義元」の死に際とは?日本の人物

油断大敵の象徴?

「海道一の弓取り」の異名を持ちながらも、「織田信長」の栄光の影に埋もれてしまっている「今川義元」はどのような最期を遂げたのでしょうか?

この記事では、「今川義元」の最期について分かりやすく解説していきます。

1. 「今川義元(いまがわ よしもと)」とは?簡単に説明「今川義元」とは、今川氏第11代当主の戦国大名です。

家督争いの末に今川氏を相続し、巧みな外交手腕により、支配領域を拡大していきます。

駿河国(現在の静岡県中部)と遠江国(現在の静岡県西部)を支配していた「今川氏」は、東に位置する「北条氏」を迎撃し、領土の防衛に成功します。

さらに、西に位置する三河国(現在の愛知県東半部)を巡った織田氏との争いにも勝利し、支配下に置きます。

これにより「今川義元」は今川氏最大の支配領域を築き上げ、「海道一の弓取り」と称されるようになりました。

「今川義元」の最期

「今川義元」は、三河国の覇権争いで打ち負かした「織田氏」が支配する尾張国(現在の愛知県西部)へ侵攻を開始しました。

そして、永禄3年(1560年)に「織田信長」とのあいだで、「桶狭間の戦い」が起こります。

織田軍3000人から5000人に対して、今川軍は25000人から45000人(諸説あり)という圧倒的な戦力差でした。

戦局優位に立っていた今川軍は豪雨をやり過ごすために休息をとっていましたが、豪雨に乗じた織田軍の奇襲を受けてしまい、「今川義元」は討死、今川軍は敗北してしまいます。

享年42歳でした。

「今川義元」の死に様の信憑性

「信長公記」によると、奇襲を受けた「今川義元」は輿(こし)を乗り捨て、親衛隊300騎に守られながら退却を試みますが、織田軍に追いつかれてしまいます。

「今川義元」は敵武将「服部一忠(はっとり かずただ)」を退けるも、助太刀に入ってきた「毛利良勝(もうり よしかつ)」に討ち取られたと記されています。

また、「改正三河後風土記」によると、「今川義元」は討ち取られる寸前に、「毛利良勝」の左指を食いちぎったと記されています。

「今川義元」にまつわるエピソード

「当代記」によれば、「今川義元」「桶狭間の戦い」の直前にある夢を見ます。

そこには、かつて家督争いの末に自害に追い込んだ異母兄の「玄広恵探(げんこう えたん)」が現れ、今回の出陣を止めるように言いました。

「今川義元」「自分の敵の言うことは聞けない」と断りますが、「玄広恵探」「敵味方の感情で言っているのではなく、今川家の滅亡を案じているのだ」と述べたそうです。

まとめ

「今川義元」とは、今川氏第11代当主の戦国大名です。

「海道一の弓取り」の異名を持ち、巧みな外交手腕により、今川氏最大の支配領土を築き上げます。

そして、さらなる領土拡大のため「織田信長」が支配する尾張国へ侵攻しました。

しかし、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」にて、織田軍の奇襲を受けて討死します。

享年42歳でした。

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