「坂本龍馬」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「坂本龍馬」の死に際とは?日本の人物

日本の歴史に登場する偉人達の中でも、とりわけ高い人気を誇るのが坂本龍馬です。

日本人に愛される坂本龍馬は、どのような晩年と最期を迎えたのでしょうか。

坂本龍馬とは?

坂本龍馬は幕末に活躍した志士で、日本では絶大な人気を誇ります。

歴史好きではなくても、その名前を知らない人はほとんどいません。

薩長同盟を成立させた人物としても知られています。

坂本龍馬は土佐藩の郷士の元に生まれますが、脱藩して勝海舟の元に入門します。

長崎に商社亀山社中を設立し、仲が悪かった薩摩藩と長州藩を仲介して盟約を結ぶ手助けをしました。

これが薩長同盟で、後に倒幕運動の基盤となり大政奉還へとつながっていきます。

坂本龍馬の晩年

坂本龍馬の晩年に起きた大きな事件といえば、寺田屋事件です。

薩長同盟が成立した後、龍馬は宿にしていた寺田屋で祝杯をあげます。

しかし、そこで幕吏に襲われ傷を負いました。

この時、恋人であるお龍が異変を察知して龍馬に知らせたため、負傷はしたものの脱出することができたといいます。

この時、龍馬を捕らえにきた2人を龍馬は殺害しています。

それから治療のために龍馬は温泉に行くことにし、お龍を伴って蜜月旅行を楽しみました。

これが日本で最初の新婚旅行だったといわれています。

坂本龍馬の最期

京都の近江屋というところで、坂本龍馬は襲撃を受けます。

この時、陸援隊の中岡慎太郎と龍馬の従僕だった山田藤吉も一緒でした。

3人とも刀で斬られ、龍馬はほとんど即死に近かったといわれています。

龍馬の享年は33でした。

この襲撃によって山田藤吉も中岡慎太郎も命を落としました。

坂本龍馬の死の信憑性

坂本龍馬は刺客によって暗殺されますが斬られた直後は息があり、「わしゃあ、脳をやられたからもうだめだ」と言って絶命したといわれています。

誰が暗殺を実行したのかについては、よくわかっていません。

新選組の犯行だという説もありましたし、紀州藩の犯行という説もありました。

新選組は京都で治安維持を担った浪士隊です。

また、坂本龍馬の海援隊が運航していたいろは丸が紀州藩の船と衝突事故を起こしていたため、紀州藩が仕返しに襲撃したとも考えられたのです。

しかし、現在では京都見廻組の犯行だったという説が有力となっています。

京都見廻組は、幕臣によって結成されていた治安維持組織です。

京都見廻組のリーダーだった佐々木只三郎が指示し、選抜した部下と共に龍馬や中岡を殺害したという証言が遺されています。

その証言をしたのは元見廻組で、箱館戦争で降伏して捕虜になった今井信郎という人物です。

今井の証言によれば、なぜ龍馬を襲撃したのかというと、寺田屋事件において龍馬が脱出する際に捕らえに来た2人を射殺していたからです。

まとめ

坂本龍馬は動乱の幕末において、激動の人生を歩みます。

その最期もまるで映画を見ているようなドラマチックなものでした。

33歳という若さで亡くなってしまうのです。

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