「杉田玄白」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「杉田玄白」の死に際とは?日本の人物

杉田玄白は江戸時代に活躍した蘭学医で、解体新書を記したことで知られています。

杉田玄白の晩年と最期について紹介します。

杉田玄白とは?

杉田玄白は、若狭国小浜藩の藩医をしていた杉田甫仙の三男として誕生します。

医学を学び、父と同様に小浜藩の藩医となりました。

父が亡くなると、家督と侍医の職を継承します。

ある時、後輩にあたる中川淳庵が、「ターヘル・アナトミア」というオランダ医学書を持って玄白の元を訪れます。

それに掲載されていた精密な解剖図に驚嘆した玄白は、藩に相談してこれを購入し和訳することにしました。

和訳したものが、解体新書です。



杉田玄白の晩年

杉田玄白は小浜藩の中屋敷で生活していましたが、1776年にそこを出て近隣の旗本の屋敷の一部を借りて開業します。

玄白は医師としては評判が良く、毎日大勢の患者が訪れたといいます。

また、天真楼という医学塾も開き、後進の育成にも携わりました。

それから「蘭学事始」という回想記も記しています。

玄白は蘭学の草創期に活躍した人物ですが、この頃のことが後世に間違って伝わるのではないかと懸念していました。

そこで、自ら史実を忠実に記録しようとしたのです。

「ターヘル・アナトミア」を和訳するのに苦労したことなども書かれています。

この回想記が完成したのは、玄白が82歳の時でした。



杉田玄白の最期

杉田玄白は、83歳で息を引き取りました。

当時としては非常に長命だったので、老衰であることが考えられます。

杉田玄白が記した解体新書に関する逸話

解体新書といえば杉田玄白の名が真っ先に思い浮かびますが、実は解体新書の作成に関わったのは杉田玄白だけではありません。

前野良沢・中川淳庵・桂川甫周・吉雄耕牛・小田野直武など、医師や通訳、画家など様々な人々が関わっています。

前野良沢は中津藩の藩医で、翻訳作業の中心的な人物でした。

ただし、本人が望んだためか解体新書の著者には名前がありません。

中川淳庵はオランダ語を学び、翻訳作業に携わっています。

桂川甫周は20代という若さで、翻訳に参加しました。

吉雄耕牛はオランダ語の通訳です。

小田野直武は、解体新書の図を描いた画家になります。

解体新書に記された「神経」「動脈」などの言葉は、医学用語として現在も定着しています。

杉田玄白をめぐる逸話

杉田玄白に大きな影響を与えたのは、医学者だった山脇東洋が行った人体解剖です。

処刑されて罪人の体を使って解剖を行いました。

今まで日本では中国医学の五臓六腑という考え方が主流でしたが、人体解剖を目の当たりにした玄白はその考え方に疑問を抱くようになります。

それに対してオランダの医学書は非常に正確でした。

まとめ

杉田玄白は、ターヘル・アナトミアというオランダの医学書の翻訳を仲間と共に行いました。

解体新書と呼ばれるもので、日本の医学業界に大きな功績を残しました。

晩年は、その当時の回想録などを執筆しています。

83歳で亡くなりました。

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