「李白」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「李白」の死に際とは?日本の人物

「李白(りはく)」とは?

李白の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「李白」とは?簡単に説明

李白は盛唐時代の詩人です。

「詩仙」(詩の仙人)と称され、「詩聖」と称された杜甫と共に並び称して二人を「李杜」と呼んでいます。

李白の人生の大半は25歳の頃から始めた放浪生活でした。

41歳の時、玄宗皇帝に一時仕え、お抱え詩人となりますが、仕えたのはわずか2年足らずで、その後はまた放浪生活に逆戻りします。

56歳の時に反乱分子として捕えられ流罪となるも、途中白帝城付近で許され、その時に詠んだ歌が「早発白帝城」という李白の代表句の一つになります。



「李白」の晩年

李白の晩年は宮中を追放されて2度目の放浪時代を過ごした時期になります。

最初の放浪は25歳の時に始まって、玄宗皇帝に仕えるまでが該当します。

この2度目の放浪時代における詩作が李白の最も花開いた時期となりました。

「詩の仙人」と呼ばれる、まさに自由人として生きられた時期だったのでしょう。

ちなみに李白の代表的な詩としては、「黄鶴楼送孟浩然之広陵」「静夜思」「早発白帝城」「山中問答」などがあります。



「李白」の死に様

李白は安史の乱が勃発した後は廬山に隠棲していましたが、玄宗の子息の幕僚として招かれたことで反乱軍の一味として囚われの身になります。

56歳の時です。

しかし2年後、流罪で配流される途中に罪を許され赦免されます。

その後も再び各地を放浪するようになり、761年に宣州当塗県の県令李陽永のもとに身を寄せ、翌762年10月22日に李陽永の邸宅で病死します。

61歳(享年62歳)でした。

「李白」の死に様の信憑性

李白に関する有名な伝説としては、当塗の近くの采石磯というところで船に乗って酒を飲み、詩を詠じていた時、水面に映った月があまりにも美しいので捕らえようとして船から落ち、溺死したと言われています。

いかにも李白らしい最期のようですが、これはあくまで伝説で事実ではありません。

なお、当塗県で病死したという記録が残っているため、信憑性はこちらの方がはるかに高いようです。

ただし、病名は不明です。

李白は持病持ちだったと聞きませんが、大の酒好きだったようです。

そのため、お酒に絡む内臓疾患などの病気が原因として考えられますが、これはあくまで勝手な推測で事実は分かりません。

まとめ

李白の死因は「捉月伝説」と言われる、船上から水面に映った月を取ろうとして溺死したという伝説もありますが、実際は病死のようです。

享年62歳でした。

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