「伊丹親興」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊丹親興」の死に際とは?日本の人物

武将の「伊丹親興」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「伊丹親興」とは?簡単に説明

「伊丹親興(いたみちかおき,生年不詳~1574年)」は、室町時代から戦国時代にかけて細川管領家に仕えて摂津国で勢力を持っていた武将です。

細川晴元に三好長慶が反乱を起こすと伊丹親興は晴元に味方しましたが、その後は長慶に従って戦い、長慶の死後の京都内戦では松永久秀に協力しました。

永禄11年(1568年)、織田信長が上洛した際に親興は帰順しましたが、天正1年(1573年)頃に足利義昭に付いて信長との関係が悪化、荒木村重に滅ぼされました。



「伊丹親興」の晩年

「伊丹親興」は室町時代末期の混乱期に、「細川晴元・三好長慶(三好三人衆)・松永久秀・織田信長」の間を行ったり来たりしながら、生き延びていました。

永禄11年(1568年)、将軍家の足利義昭を奉じて織田信長が上洛してきた時には、強い者に従う形で信長に「摂津三守護」に任命されました。

三好三人衆が足利義昭を襲った「本圀寺の変(1569年)」では、細川藤孝・荒木村重らと一緒に三人衆を倒しました。

しかし、元亀元年(1570年)に荒木村重が三好長逸と内通して、池田城から池田勝正を追い出し、再び三好三人衆が息を吹き返してきます。

元亀2年(1571年)、荒木村重・池田知正の軍勢が、足利義昭方の伊丹親興らを攻撃し、茨木重朝・和田惟政が討たれて命を落としました。

晩年の伊丹親興は、15代将軍の足利義昭に味方して劣勢に追い込まれていきました。



「伊丹親興」の死に様

「伊丹親興」は、15代将軍・足利義昭に味方することを決めて、織田信長と敵対関係になっていく中で死地に近づいていきました。

元亀4年(1573年)に、池田城を拠点としていた荒木村重が織田信長側に寝返ります。

さらに高槻城では、キリシタン大名として知られる高山友照・右近の親子が、反信長の和田惟長を謀殺して、荒木村重の配下となりました。

京都の三好派と通じていた篠原長房が主君・三好長治に「上桜城の戦い」で殺され、三好派が四国から支援を受けられなくなり弱体化します。

1573年7月の「槇島城の戦い」で将軍の足利義昭が信長に敗れて、実質的に室町幕府が倒れました。

岩成友通が戦死、三好義継が自害、松永久秀が降伏して、伊丹親興は軍事的に孤立します。

天正2年(1574年)11月15日、伊丹城が織田信長の命を受けた荒木村重に攻撃を受け、守りきれなくなった伊丹親興は自害しました。

「伊丹親興」の死に様の信憑性

足利義昭・三好派・松永久秀が織田信長にやられて孤立無援の状態となった「伊丹親興」は、天正2年(1574年)11月に信長方の荒木村重に伊丹城を落とされて自害したと伝えられています。

伊丹親興が荒木村重に敗れたことは史実としての信憑性がありますが、伊丹城で自害せずに抜け出したという異説もあります。

「新・伊丹史話」に書かれている異説では、正親(まさちか)と名前を変えて落ち延び、黒田長政に従って「関ヶ原の戦い」で戦死したとされています。

まとめ

「伊丹親興」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「伊丹親興」は、信長についた荒木村重に攻められて自害しました。

「伊丹親興」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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