維新志士として奔走した後、初代内閣総理大臣へと就任した「伊藤博文」ですが、どのようなどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「伊藤博文」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「伊藤博文(いとう ひろぶみ)」とは?簡単に説明
「伊藤博文」は日本の初代内閣総理大臣となった人物です。
「伊藤俊輔(いとう しゅんすけ)」の名でも知られ、青年期は長州藩の維新志士として尊王攘夷運動に身を投じました。
また、この時期に藩命を受け、「長州五傑(ちょうしゅうごけつ)」としてイギリスに留学しています。
明治維新後、「伊藤博文」は内閣制度への移行に伴って初代内閣総理大臣に選ばれました。
その後も、初回を含めて4回、内閣総理大臣へと就任しています。
「伊藤博文」の晩年と最期
「伊藤博文」は明治38年(1905年)「第二次日韓協約」における特派大使に抜擢され、韓国総督府が設けられると初代総監へと就任しました。
当初、「韓国併合」に反対だった「伊藤博文」は韓国総監として、教育の推進などで韓国の国力向上に努めます。
しかし、後に大韓帝国皇帝「高宗」の退位や韓国軍の解散を受け、韓国では反日、及び独立の気運が高まっていきました。
これを受けて、「伊藤博文」は韓国民との融和策を講じますが、結果的には失敗に終わり、後に「韓国併合」に同意すると共に、韓国総監を辞任しました。
そして、明治42年(1909年)10月26日、ロシアの大蔵大臣「ウラジーミル・ココツェフ」との「韓国併合」に関する会談のためにハルビン駅を降り立ったところを、大韓帝国の活動家「安重根(あん じゅうこん)」により暗殺されてしまいます。
享年69歳でした。
「伊藤博文」の死に様の信憑性
暗殺時、「伊藤博文」は3発の銃弾を撃ち込まれました。
1発目は右腕を貫通し、左肺内へ、2発目は右ひじ関節、胸腹を貫通して、左季肋部へ、3発目は上腹部中央にかけて右側から左直腹筋の中へ銃弾が留まったと当時の診断書に記録されています。
襲撃後、「伊藤博文」はすぐさま列車内に運び込まれ、応急処置を受けますが、ブランデーを二口含んだ後、30分後に果てました。
死の間際、自分を撃ったのが韓国人だと知らされ「そうか、馬鹿な奴だ」と発したそうです。
好色漢だった「伊藤博文」
「英雄色を好む」(英雄は精力が旺盛なため、女好きが多い)と言いますが、「伊藤博文」も女好きとして有名だったようです。
掃いて捨てるほど女がいたことから「箒(ほうき)」のあだ名で呼ばれたり、女遊びについて明治天皇からもたしなめられたという逸話(?)が残っています。
まとめ
「伊藤博文」は長州藩士として尊王攘夷運動に傾倒した後、明治維新後に初代内閣総理大臣へとなった人物です。
晩年は「第二次日韓協約」による大日本帝国の大韓帝国保護国化に伴い、韓国初代総監に就任しました。
その後、会談のために向かったハルビン駅にて、大韓帝国の活動家「安重根」の凶弾に倒れます。
享年69歳でした。