「明治天皇」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「明治天皇」の死に際とは?日本の人物

幕末から明治へと流動する日本をやがて西洋列強の一員となるまでに押し上げた「明治天皇」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「明治天皇」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「明治天皇(めいじてんのう)」とは?簡単に説明

「明治天皇」は日本国第122代天皇です。

「孝明天皇」崩御後、慶応2年(1867年)に14歳で天皇に即位しました。

即位からほどなくして、慶応3年(1867年)に15代将軍「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」による「大政奉還」(将軍が天皇に政権を返上すること)を勅許し、平安時代より続く武家政権は終わりを迎えました。

その後、「王政復古の大号令」を発し、新政府を樹立、「旧幕府軍」との間で「戊辰戦争」が起こります。

「戊辰戦争」終結後、様々な内政改革を経て日本を近代国家へと変貌させていきました。



「明治天皇」の晩年と最期

日本初の近代戦争とされる「日清戦争」「日露戦争」では大本営にて、自ら戦争指導に当たったと云われています。

明治38年(1905)の「日露戦争」勝利により、「満州」(中国東北部)を獲得し、さらに「韓国合併」も行い、植民政策によって領土を拡張させていきます。

さらに、開国以来続いていた欧米諸国との不平等条約を改正させるなど、日本を西洋列強に並ぶ強国へと押し上げました。

明治45年(1912年)の7月11日に東京帝国大学の卒業式に出席しましたが、その後、体調を崩してしまいます。

同月20日には医師より「尿毒症」と診断され、後日、痙攣が起こるなどさらに病状が悪化したようです。

カンフル剤や生理食塩水注射を投与されるも、同月29日の22時43分に宝算61歳で崩御しました。



「明治天皇」の死に様の信憑性

死因については、持病の「糖尿病」が悪化して「尿毒症」を併発しており、「心臓麻痺」を起こしたとされています。

崩御間際の様子については、その場に立ち会った皇族「梨本宮妃伊都子」の日記で「呼吸が弱まる中、喉に痰が絡んだようで咳払いをするが、後に声もなくなり、眠るように亡くなった」とこと細かく記録されてあるようです。

また、実際の崩御時刻は7月29日22時43分でしたが、規定上、皇太子への譲位は崩御した当日に行わなければなりませんでした。

しかし、日付が変わるまでに時間がわずかしかなかったため、公表上は2時間遅らせた7月30日午前0時43分とされました。

まとめ

「明治天皇」は日本国第122代天皇です。

明治維新にて、それまで600年以上続いてきた武家政権を終わらせ、君主政へと転換させました。

明治新政府樹立後は、内政改革や外国との戦争の勝利、不平等条約改正を経て、日本を西洋列強に並ぶ近代国家へと増強させます。

明治45年(1912年)7月29日の22時43分に宝算61歳で崩御しました(発表では7月30日午前0時43分)。

死因は、「尿毒症」による「心臓麻痺」とされています。

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