この記事では、「秋田実季」の生涯や最期について分かりやすく解説していきます。
「秋田実季」とは?簡単に説明
秋田実季は現在の秋田・山形に相当する出羽国の大名です。
安土桃山から江戸時代にかけて活躍しました。
父は 安東愛季で、北国の名家の生まれとなります。
実季の氏が安東から秋田に変わったのは、後のことです。
安東愛季は名将で、彼の統治時代が安東氏の最盛期だったとも言われます。
晩年にあっても出羽北部の海岸部を制圧するなど勢いが衰えなかったのですが、戦闘中に陣地で病死。
若干12才だった実季が安藤本家の家督を継ぎます。
しかし、これを快く思わなかったのが、従妹にあたる安東通季でした。
実季より12歳も年上で、戦略的にも有利な立場にあったため反乱のために蜂起。
これが有名な湊合戦です。
湊合戦で実季は籠城を迫られるなど大いに苦戦しましたが、最後はこれを鎮圧。
通季はこの敗走で、歴史の表舞台から姿を消しました。
以後、実季は豊臣秀吉などの歴代将軍のもとで大名として確固たる地位を築き、姓も秋田に改めるなど名君としての片鱗を見せていたのですが、ある事件によってとんでもない事態に陥ります。
天下分け目の合戦で30年の幽閉生活に入る
秋田実季の人生を一変させた事件こそ、天下分け目の「関ヶ原」の戦いです。
この戦闘自体には実季は参加していないのですが、この合戦の裏で行われていた、これまた徳川家存亡をかけた「慶長出羽合戦」に関与したのです。
「慶長出羽合戦」は関ヶ原に大軍を差し向けた徳川勢の隙を突く形で、東北地方で上杉家などの諸大名が一斉蜂起した戦い。
これには伊達政宗や直江兼続などの錚々たる名将が参加しました。
後に北の関ヶ原とも呼ばれる重要な戦いです。
この戦いで、実季は一応は徳川方についたのですが、謀反の疑いをかけられる行動から信用が低下。
戦勝後には家康の命により、常陸国に転封されました。
更にその後、特に思い当たるふしもないようですが、今度は突然蟄居を命じられ、伊勢の国に送られます。
この沙汰は生涯解かれることはなかったため、秋田実季は残りの生涯約30年にわたって、今でいう自宅謹慎ような形で過ごしました。
「秋田実季」の死に様
蟄居を命じられ、永松寺草庵に幽閉される形で85歳の生涯を閉じたと伝わっています。
死因は詳細な記述は見当たらなかったものの、おそらく老衰もしくは病死でしょう。
「秋田実季」の小ネタ等
蟄居は基本的に、自宅の一室から外に出られない厳しい処分です。
30年間のおこもり生活を続けるのですから、並大抵のことではありません。
この蟄居処分の30年間、実季は家系図づくりに親しんだ他、万金丹と呼ばれる漢方薬を後世に残すなど、最期まで前向きに人生を全うしたようです。
まとめ
30年も蟄居を命じられた不遇の名君「秋田実季」を紹介してきました。
現代人も感染症の影響で自粛生活を経験しましたが、そこから想像すると、過酷を極める重罰と言えるでしょう。
しかし、逆境の中でも諦めなかった実季の功績や持ち物の中には、現代に形を残すものがあります。
旅行の際には、その痕跡を探し求めてみてはいかがでしょう。