「福沢諭吉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「福沢諭吉」の死に際とは?日本の人物

「学問のすすめ」の著者であり、「慶応義塾大学」の創立者。

1万円札の肖像画でもお馴染みの「福沢諭吉」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「福沢諭吉」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)」とは?簡単に説明

「福沢諭吉」は近代日本の教育者、思想家であり、「慶応義塾大学」の創立者としても有名な人物です。

大阪で生まれ、「蘭学」を学ぶために長崎へ遊学しました。

その後、大阪に戻り、「適塾」の塾長になりますが、翌年に江戸で蘭学の私塾を創設します。

この私塾こそが、後の「慶応義塾(現在の慶応義塾大学)」です。

安政6年(1859年)末ごろからアメリカへ渡り、欧州諸国を往来した後、慶応3年(1867年)に帰国しますが、間もなく「明治維新」を迎えます。

維新後は出仕も帯刀もせずに平民となり、専ら教育活動に力を注ぎます。



「福沢諭吉」の晩年と最期

「福沢諭吉」は晩年に至っても、勉学を惜しむことはなかったそうです。

勉学に加えて、女性の自由や男と同じく教育を受ける権利などを説いた男女同等に関する著作を発表しています。

また、このころ「慶應義塾」には大学部が設けられ、千数百人にも及ぶ生徒を抱える巨大学校になっていました。

明治31年(1898年)の9月26日に「脳溢血」で倒れてしまいますが、後に回復しています。

ところが、明治34年(1901)の1月25日に再び「脳溢血」を起こし、2月3日の午後10時50分、東京にて死去します。

享年68歳でした。



「福沢諭吉」の死に様の信憑性

死因は再発した「脳溢血」によるものとされています。

「福沢諭吉」先生のしくじりエピソード

「福沢諭吉」は幼少のころより酒が大好きだったと伝わるほどの酒豪でした(江戸時代は飲酒に年齢制限はありませんでした)。

大阪の「適塾」で学んでいたころ、創設者の「緒方洪庵(おがた こうあん)」夫妻もその酒豪っぷりに驚いたそうで、塾長となってからも給料のほとんどを酒代に費やしていたとのこと。

ある日、酔っぱらって全裸で塾内を徘徊していたところを緒方夫人と鉢合わせたことがあり、「このときの恥ずかしさは40年経っても忘れられない」と述べています。

ちなみに、これを機に断酒を決意しますが、酒の代わりとしてタバコを吸うようになりました。

結局、断酒には失敗した挙句、元の大酒飲みに戻るどころかヘビースモーカーにまでなってしまったようです。

しかも、「ビールは酒じゃない」として断酒中もビールは毎日飲んでいたとか。

まとめ

「学問のすすめ」の発表や「慶応義塾大学」の創立からも分かるように、「福沢諭吉」は教育をはじめ、近代日本の発展に大きく貢献した人物です。

その傍ら、自身も晩年に至るまで勉学を惜しまなかったようですが、やがて2度の「脳溢血」を起こし、明治34年(1901)2月3日に享年68歳で死去しました。

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