この記事では、「坂口安吾」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「坂口安吾」とは?
坂口安吾とは、日本の近現代文学を代表する作家です。
純文学から歴史小説、推理小説、評論など幅広い分野の著作があります。
新潟県の旧家に生まれ、アテネ・フランスに入学してフランス語を習得しました。
1931年に「木枯の酒倉から」で文壇にデビューします。
第二次大戦後に「堕落論」や「白痴」を発表すると、その作品は高く評価され流行作家の仲間入りを果たしました。
無頼派の一人に数えられています。
「坂口安吾」の晩年
坂口安吾は晩年も人気作家として、歴史小説や推理小説などを発表しています。
しかし、私生活は何かとトラブルが多かったといわれています。
人気作家なので収入はありますが、それを全て使い切ってしまう生活をしていました。
税金を滞納して蔵書を差し押さえられたり、ヒロポンやアドルムといった薬物に手を出したりもしています。
ヒロポンは今でいう覚せい剤ですが、昔は体に悪影響を及ぼすことがあまり知られておらず薬局などでも普通に購入することができました。
薬物の影響で幻聴や幻視が起こり、入院したこともあります。
また、晩年には三千代という女性と知り合い結婚しており、子どもにも恵まれました。
我が子に深い愛情を感じ、初めて貯金をしようという気持ちになったといいます。
「坂口安吾」の死に様
坂口安吾は、1955年2月17日に亡くなります。
取材のために富山や新潟、高知などを回って自宅に戻ったところでした。
早朝に痙攣を起こして倒れてしまいます。
脳内出血でした。
そして、そのまま亡くなりました。
享年48です。
「坂口安吾」の死に様の信憑性
坂口安吾は生前、葬式は退屈で不要だと語っていたといいます。
しかし、青山斎場で葬儀が行われ、川端康成や尾崎士郎、佐藤春夫といった著名な作家が次々と駆け付け弔辞を読んでいます。
絶筆となった作品は「狂人遺書」で、豊臣秀吉を題材にしています。
高齢になってから我が子の鶴松を授かった秀吉と、自らの我が子に対する思いを重ね合わせたのです。
坂口安吾の長男は成人してからカメラマンとなり、父の安吾に関する講演や執筆なども行っています。
まとめ
坂口安吾は晩年も作家として様々な著作を残しており、結婚して子供にも恵まれました。
取材旅行を終えて自宅に来たくしたところ脳内出血で倒れ、帰らぬ人となっています。
享年48です。