「服部半蔵」という名前を聞いて真っ先に思い浮かぶのが「忍者」ではないでしょうか。
数々の創作物やゲームなどに伊賀忍法の達人として登場し、そのイメージが強い「服部半蔵」ですが、実は代々その名が受け継がれていく襲名制の名前で、忍者だったのは初代「服部半蔵」だけだったとされています。
この記事では「服部半蔵」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「服部半蔵」とは?簡単に説明
「服部半蔵」は、初代半蔵であった服部保長を初代とした、服部氏代々当主が襲名制で名乗っていった名前です。
13代にも渡り様々な大名に仕えていき、徳川家康に仕えた2代目「服部半蔵」が有名です。
初代「服部半蔵」は、三重県伊賀市に忍者の一族として生まれたとされており、室町幕府12代将軍に仕えました。
忍者であったのはこの初代半蔵だけであったという説が一般的で、この後に「服部半蔵」を名乗る代々服部家の当主は忍者ではありませんでした。
「服部半蔵」として一番有名とされる2代目服部半蔵正成は、徳川家康に仕え、のちに伊賀同心として活動します。
2代目半蔵は俗に言う忍者の恰好ではなく、槍や鎧を装備した武士であり、槍の名手として名高い人物でした。
その後、「服部半蔵」の名前は13代まで続いており、出生や没日が不明な人物も多いためその個々の人物についての詳細は伏せます。
「服部半蔵」の死に様
「服部半蔵」は13代まで続く服部家当主が代々襲名した名前であるため、個々の死に様については割愛します。
その中でも、「服部半蔵」の代名詞とされる2代目「服部半蔵」は、徳川家康に生涯をささげ数々の戦に武士として参戦します。
主に鉄砲や槍を武器に戦場で活躍、1597年1月2日(慶長元年11月14日)に病死したと考えられており、半蔵が葬られている西念寺では、毎年11月14日に「半蔵忌」という法要が現在でも行われています。
「服部半蔵」の死に様の信憑性
2代目「服部半蔵」の服部半蔵正成は、1597年1月2日(慶長元年11月14日)に病死したとされています。
この記録は、当時の書物や文献、葬られたとされる西念寺に存在する墓碑などの記述から概ね間違いないようです。
しかし他の代々の「服部半蔵」については、出生日自体が不明な者、その活動内容が不明な者が多く、没日や死因などは詳しくは不明です。
「服部半蔵」の小ネタ等
「服部半蔵」は忍者としてイメージが強い人物ですが、現在残っている本人が使用したとされる武器は忍者のそれとは程遠い物が多くなっています。
初代「服部半蔵」は忍者であったとされていますが、その武器は焼失しており、いわゆる「手裏剣」などと言った忍者ゆかりの武具はありません。
2代目「服部半蔵」は槍の名手であったとされているため、本人が使用したとされる槍が何本か現存しており、西念寺に奉納されている「服部半蔵の槍」は、全長258センチメートルもあり、重さも7. 5㎏あります。
まとめ
「服部半蔵」は服部家当主が代々名乗っていた名前という事になります。
その中でも「服部半蔵」の代名詞として有名な2代目「服部半蔵」は、忍者ではなく槍の名手として有名な武士であったのです。
しかし忍者としての「服部半蔵」は今後も数々の創作物やゲームなどで目にする事になるではないでしょうか。