「板垣退助」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「板垣退助」の死に際とは?日本の人物

自由民権運動の指導者として知られる板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残しています。

その晩年と最期がどのようなものだったのか紹介します。

板垣退助とは?

板垣退助は明治を代表する政治家の1人で、土佐高知藩に生まれました。

戊辰戦争では総督府において参謀役を務め新政府でも参議となりますが、征韓論をめぐる争いに敗れ西郷隆盛と共に辞職します。

その後、民選議院設立建白書を提出して自由民権運動を推進するようになります。

高知に戻って立志社を設立し、大阪を地盤とする愛国社も設立しました。

そして自由党を結成して総理となり、政治家として精力的な活動を続けています。



板垣退助の晩年

板垣退助は、明治33年に立憲政友会の成立を契機として政界を引退します。

その後は社会事業に専念しました。

明治37年には機関紙の「友愛」を刊行しています。

また、大正2年には、立憲青年自由党の相談役にもなりました。

立憲青年自由党は肥田琢司が中心となって結成した政党です。

台湾を訪問したり、著作を残すなど政界を引退しても活動的でした。

ただし、金銭面では不自由をしていたようで、質素な生活を送っていました。

日本の総理まで務めた人なので意外な気がしますが、板垣退助が貧しいのは自由民権運動のために私財を投じていたからです。



板垣退助の最期

板垣退助は大正8年に、肺炎のため亡くなりました。

享年83で、当時としては長生きしたといえるでしょう。

板垣退助はかねてから、華族一代論を唱えていました。

明治20年に戊辰戦争や明治維新の功績から伯爵の位を受爵していますが、本人は自由民権運動を主導した立場から華族制度に反対していたのです。

2度断ったものの3度目は断り切れずに、華族となります。

板垣の息子である鉾太郎は父の意志を実践するため、自ら廃嫡し爵位を受け継ぐことはありませんでした。

板垣退助にまつわる逸話

「板垣死すとも自由は死せず」この名言は、板垣退助が明治15年に岐阜で暴漢に襲われた時に言った言葉とされています。

実際には「吾死するとも自由は死せん」と言ったという記録が残っています。

この事件により板垣が暗殺されたと勘違いしている人もいますが、負傷しただけで命に別状はありませんでした。

襲撃したのは小学校の教員だった相原尚?という人物で、保守主義に傾倒しており自由党の党首だった板垣を殺害することにしたといいます。

驚いてしまうのは板垣退助自身が相原尚?の助命嘆願を行ったことです。

それもあって相原尚?は極刑を免れました。

まとめ

板垣退助は自由民権運動の指導者で、政界を引退した後は社会事業に尽力します。

83歳で肺炎のために亡くなるまで、精力的に活動を行いました。

華族制度に批判的でしたが、固辞しきれず伯爵となっています。

しかし板垣はかねてから華族一代論を持論として唱えており、その意志を継いで息子である鉾太郎は爵位を受け継ぐことはありませんでした。

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