1世紀前の歌姫「松井須磨子」の死に際とは?
この記事では松井須磨子の晩年と死に際について解説していきます。
「松井須磨子」とは?簡単に説明
現在は2023年、ちょうど100年前の日本を代表する歌姫の一人だと言っていいでしょう。
当時の音源が動画サイトには残ってはいるものノイズが酷くその魅力は正確には伝わらないかもしれません。
当時としては革新的な人物であり、美容整形を行ってまで俳優学校に入校。
晴れて女優の道を歩む事になりました。
とかく初物尽くしの女優だと言ってよく、前述した初の整形美人女優、初の唄う女優、初の発禁レコード第一号などを挙げる事ができます。
こうしたフレーズは彼女にとってある意味輝かしい勲章となったのは間違いありません。
「松井須磨子」の晩年
女優といえば恋多き女というフレーズが思いつく方も多いと思いますが、松井氏もまたその一人だったと言っていいでしょう。
17歳で初婚、舅にいびられ性病を移される苦難を味わっています。
その治療中に知り合った男性「前沢誠助」氏と再婚。
しかしそれも長続きせず5年程で離婚していますが、彼女が家事を疎かにしていた事が離婚理由になりました。
1910年10月に2度目の離婚をするも翌年には「島村抱月」と恋に落ちています。
略奪愛は当時としても醜聞になったのは間違いありません。
それでも愛する抱月氏のプロデュースにより、出すレコードが尽く27万枚以上を記録。
愛する人とともに勝ち得た人気により充実した日々を過ごしていたと言えるはずです。
しかしそんな日々も呆気ない終わり方で幕を引く事になりました。
「松井須磨子」の死に様
1919年1月5日、当時東京15区制の東京市牛込区横寺町に所在した芸術倶楽部の道具部屋に首吊り自殺しています。
32歳没。
「松井須磨子」の死に様の信憑性
大正時代は現代以上に略奪愛は醜聞となったのは間違いありません。
その中で愛する人と起ち上げた芸術倶楽部ですなら思い入れは特別なものがあったと言えるでしょう。
現代的に言えば抱月氏は既婚者で愛人とプロデューサーの関係。
しかし彼に手掛けられた数々のヒット曲と舞台は特別なものだったと思われます。
しかしそんな幸せも1918年11月に突然の幕引きがされる事になりました。
約100年前の世界では現在のコロナウイルスに匹敵する新型インフルエンザウイルスの脅威に晒されています。
最愛の抱月氏が新型インフルエンザであるスペイン風邪に罹患。
その後急性肺炎によりあっさり亡くなってしまいました。
彼女の半生は決して恵まれた境遇ではなかっただけに抱月氏の与えてくれたものに気づき、喪失感を覚えたのかもしれません。
その結果が後追い自殺に繋がったのではないでしょうか。
抱月氏が亡くなった芸術倶楽部で自殺を敢行したのはその現れの様にも思えます。
まとめ
1918年1月5日、東京市牛込区横寺町にある芸術倶楽部の道具部屋で首吊り自殺。
32歳没。
死を選んだ理由はほぼ抱月氏の後を追ったものだと思えます。
それは抱月氏が亡くなった場所でもあり、彼との思い出の詰まった芸術倶楽部を死地に選んだ事からも明らかだと言えるでしょう。