「与謝蕪村」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「与謝蕪村」の死に際とは?日本の人物

与謝蕪村は江戸時代の俳諧師で、文人画家としても知られています。

与謝蕪村の晩年と最期(死因)について紹介します。

与謝蕪村とは?

与謝蕪村は摂津国の裕福な家の生まれですが、両親と財産を失って20歳になる頃に江戸に出ます。

そして夜半亭宋阿の門人となって俳諧を学びました。

師匠である夜半亭宋阿が亡くなると、夜半亭宋阿の縁故を頼りながら下総国や東北地方を10年かけて放浪しています。

その後、京都に住むようになります。

与謝蕪村というと俳諧師というイメージが強いですが、俳諧は教養を持つ者同士の遊びで行っていました。

画業においては、池大雅と共に文人画の大家として評価されています。



与謝蕪村の晩年

与謝蕪村は40歳を過ぎてから京都に住むようになり、45歳の時に妻帯しました。

一人娘ももうけています。

当時としてはかなりの晩婚です。

京都に移ってから、与謝蕪村は画業でも俳壇でも名声を高めました。

師匠の夜半亭を継ぎ2世となると、京都俳壇の中心的な存在として活躍します。

また、京都を住処とはしていましたが、讃岐に数年滞在したこともあります。

その時、妻子は京都に残したままでした。

そこでも数多くの作品を手掛けています。

画業では池大雅との合作である「十便十宜図」を描きました。

これは清の文人であった李笠翁の十便十二宜詩に基づいて描いた作品です。



与謝蕪村の最期

与謝蕪村は京都にある家で突然倒れ、そのまま亡くなってしまいました。

享年68です。

与謝蕪村の死因は重症下痢症といわれていましたが、最近の研究によってそうではないことが判明しました。

おそらく心筋梗塞によって亡くなったであろうと考えられています。

与謝蕪村と松尾芭蕉

与謝蕪村は松尾芭蕉を崇拝していました。

芭蕉による蕉風俳諧を信奉しており、芭蕉の句集に絵をつけた作品なども残しています。

有名な作品を挙げると、奥の細道図巻や奥の細道図屏風などがあります。

どちらも現在は美術館に所蔵されています。

また、自分が亡くなった後は芭蕉の碑がある金福寺に葬ってほしいとも言っていました。

実際、与謝蕪村は金福寺に葬られています。

与謝蕪村をめぐる逸話

与謝蕪村は、一人娘であるくのを溺愛していたといわれています。

40半ばになってから授かった我が子なので、それは愛おしんでいました。

画業で讃岐に滞在することになった時には、知人に京都に残した妻子を訪ねて欲しいと何度も頼んでいます。

くのに絵の手ほどきは、自ら行ってもいます。

晩年、与謝蕪村の心配の種はこの一人娘でした。

老齢の蕪村は娘を嫁がせます。

華やかな婚礼が盛大に行われました。

しかし、くのは婚家に馴染めず、たった半年で実家に出戻ったのです。

まとめ

与謝蕪村は俳諧と文人画の大家として知られ、40歳を過ぎてから名声を高めました。

若い頃は放浪していましたが、晩年は京都に定住しています。

40半ばで娘を授かり、最後まで娘のことを案じていました。

そして、68歳で亡くなります。

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