「結城秀康」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「結城秀康」の死に際とは?日本の人物

結城秀康は徳川家康の次男で、第二代将軍となった徳川秀忠の兄にあたる人物です。

豊臣秀吉の養子になるなど、数奇な運命をたどりました。

結城秀康の晩年と最期について紹介します。

結城秀康とは?

結城秀康は、徳川家康の子として生まれました。

1584年に豊臣秀吉と争った小牧・長久手の戦いが起きると、講和の条件として秀康は秀吉の養子となります。

実際は人質として差し出されたものでした。

豊臣姓を下賜され、1587年の九州征伐の際に初陣を飾ります。

文禄の役と慶長の役にも参加し、勇敢に戦ったといわれています。

その後、北関東の大名であった結城晴朝の姪を妻に娶り、結城家の養嗣子として迎えられました。

結城秀康の晩年

豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起きると、結城秀康は宇都宮の地にとどまって上杉景勝を迎え撃つよう父である徳川家康から指示を受けます。

その言葉に従い、上杉氏の西上を防ぐことに成功しました。

その功績もあり、下総結城の10万石から越前北庄の68万石に加増されています。

弟である秀忠が家康の跡を継いで将軍となりますが、秀忠は秀康に対しては大分気を使っていたようです。

後に越前松平家となる結城家は制外の家とされ、他の大名とは別格として扱われています。

結城秀康の最期

結城秀康は徳川家から命じられて伏見城の留守居役を務めていましたが、病を得たため越前へ帰国します。

その1か月後に亡くなりました。

死因は梅毒ではないと言われています。

亡くなる前は腫物がひどく、対面することもままならない状態だったといいます。

また、他の病も患っていたという説もあり、はっきりしたことは分かっていません。

34歳という若さでした。

結城秀康と徳川家康

結城秀康の生母は於万の方といい、徳川家康の正室であった築山殿に仕える侍女でした。

築山殿に気を使ったのか、於万の方は重臣であった本多重次に預けられます。

しかも、豊臣秀吉に人質として差し出されてもいるので、。

家康からは冷遇されていたように見えます。

また、家康の後継者は築山殿が生んだ信康でしたが、織田信長の命令によって切腹させられてしまいます。

跡を継いだのは秀康ではなく、三男の秀忠でした。

秀康が豊臣秀吉の元に養子に出されていたためとも、秀忠の生母の方が身分が高かったからともいわれています。

ただし、成人してから家康は秀康の武将としての能力はかっていたようです。

秀康は武功を上げており、武将としての能力は秀忠よりも高かったといわれています。

そのため秀康を家康の後継者に推す声もあったようです。

家康としては、秀忠は長く嫡男として扱われてきたのでわざわざ争いの種をまく必要はないと考えたのかもしれません。

戦乱の世が終わりを迎えつつあった頃ですから、政治家としての能力の方が求められていたことも背景にあります。

まとめ

結城秀康は子どもの頃に、豊臣秀吉の養子となります。

その後、結城家に養子に出され、関ヶ原の戦いで武功を上げ越前北庄68万石を与えられます。

病を得て34歳という若さで亡くなりました。

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