この記事では、「加藤紘一」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「加藤紘一」とは?
加藤紘一とは日本の政治家の1人で、防衛庁長官や内閣官房長官、自民党の政務調査会長、幹事長などを歴任しました。
同じく政治家だった父の加藤精三の後を継ぎ、1971年に衆議院議員選挙に出馬して当選します。
1984年に中曽根内閣の下で、防衛庁長官に任命されました。
1994年には自民党の政調会長に就任します。
次期総理と目されていたこともありましたが、2000年に加藤の乱を起こし求心力を失ってしまいました。
「加藤紘一」の晩年
加藤紘一の晩年は、政治家として不遇だったといいます。
転落のきっかけとなったのは加藤の乱です。
当時、森喜朗が病に倒れた小渕恵三の後を継いで首相に就任していましたが、相次ぐ失言があって内閣支持率はかなり低くなっていました。
野党が内閣不信任決議案を提出する構えを見せると、それに同調して森首相の退陣を迫ったのです。
加藤派や山崎派が内閣不信任決議案に賛成すれば可決されるはずでしたが、自民党執行部の切り崩しにあい加藤派は分裂してしまいます。
それから秘書が脱税事件を起こしたことを受け自民党を離党します。
衆議院議員も辞職しました。
その後、無所属で立候補して当選し、自民党に復党します。
2012年に行われた選挙では落選しますが、政治活動は続けていました。
娘である加藤鮎子を後継者とし、政界から引退します。
「加藤紘一」の死に様
加藤紘一が亡くなったのは、2016年9月9日です。
死因は肺炎でした。
都内の病院で療養生活を送っていたといいます。
享年77です。
「加藤紘一」の死に様の信憑性
加藤紘一は都内の病院で療養していましたが、最初に倒れたのはミャンマーでした。
インパール作戦で亡くなった日本兵を慰霊するためで、政治家の古賀誠と一緒に訪れていたのです。
そこで倒れてしまい、タイの病院に入院することになりました。
それから日本の病院に転院しています。
何の病気で倒れたのかは、よく分かっていません。
肺炎は高齢者に多い死因で、70代だったことや療養中だったことを考えると免疫力が低下していたことも考えられます。
まとめ
加藤紘一は晩年には政界を引退していましたが、政治に関する活動は行っていました。
ミャンマーを訪れた時に倒れ、都内の病院に転院して療養生活を送るようになります。
そして77歳の時に肺炎によって亡くなりました。