「春日八郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解説

「春日八郎」の死に際とは?日本の人物

「お富さん」「別れの一本杉」などのヒット曲で知られる春日八郎(かすがはちろう)は67歳で死亡しています。

今回は、「日本歌謡界の巨人」と称された彼の死因に迫ります。

「春日八郎」とは?簡単に説明

大正13年に福島県河沼郡で生まれた春日八郎こと渡部実(わたなべみのる)は、演歌の第一人者として知られる人物で、トレードマークのタキシード姿で奏でるその美声は数多くのファンを虜にしていました。

中学生のころから趣味で歌を歌い始めた春日は、父が早逝したことにより中学校を中退せざるを得なくなりますが、田舎を巡業していた旅芸人が披露した歌謡ショーに感化されたことで、音楽への道を歩み始めることになります。

しかしながら時代は太平洋戦争が始まる直前だったため、召集令状により軍隊に入隊することになった春日は、終戦後、本格的に歌手活動を開始して「赤いランプの終列車」「別れの一本杉」などのヒット曲を連発していきます。

これらの曲のヒットは当時流行っていた流行歌の時代を終焉させ、演歌の時代を迎えたことの証明でもあり、その後まもなく演歌の全盛期がやってきますが、平成3年10月22日、肝硬変と心肺不全を併発したことにより春日は67歳で死亡しています。



「春日八郎」の死に様

平成3年10月22日、春日八郎は肝硬変と心肺不全を併発してしまったことにより東京都内の病院にて67歳で死亡しています。

平成3年6月、左大腿部にできた腫瘍を摘出する手術を受けた春日は、一旦は退院して中野サンプラザで開催されたキングレコード60周年コンサートに出演し、「長崎の女」を大観衆の前で披露するほどの回復力を見せています。

当日車いすで会場入りした春日は、ステージには杖無しで上がり、自力で歩行して自身のヒット曲を歌い切りましたが、その後体調が悪化したことにより再入院しています。

このステージは春日の生涯におけるラストステージとなり、この時披露した彼の歌声は全盛期さながらの美声でしたが、生涯最後のステージからわずか1ヶ月後、67年間の生涯に幕を下ろしています。



「春日八郎」の死に様の信憑性

晩年には同じ演歌歌手である三橋美智也や村田英雄などと共に「三人の会」を結成した春日八郎は、演歌の大御所3名でチャリティー・コンサートを開催して、低迷している演歌業界の活性化に力を注いでいました。

しかしながらこの時期から体調を崩し始め、少しずつ身体もやせ細っていた春日は11年ぶり21回目となるNHK紅白歌合戦に出演を果たしますが、この時期から徐々に療養生活に入っていくことになります。

結成した「三人の会」が開くコンサートにも春日のみが出演することができなくなることが増えていき、病床の春日はメッセージのみでの出演を余儀なくされることが多くなっていましたが、最終的には肝硬変と心肺不全により67歳で亡くなっています。

「春日八郎」の小ネタ等

春日八郎の葬儀の際には、竹下登元総理も参列し、集まった参列者全員で彼のヒット曲である「お富さん」を合唱しています。

また春日の功績をたたえ、平成4年には「全国春日八郎偲ぶ会」が発足しています。

まとめ

演歌の第一人者として知られる春日八郎は67歳で亡くなっています。

「お富さん」「別れの一本杉」などで演歌というジャンルを確立し、一般に広めた彼の功績は現在の歌謡界でも光り続けています。

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