「濃姫」は、15歳で織田信長と政略結婚させられた事が有名ですが、その人物像や没日、本名に至るまで謎の多い人物です。
当時の文献や書物に極めて記載量が少なく、本能寺の変の後「濃姫」がどうなったのか様々な諸説が存在します。
この記事では「濃姫」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「濃姫」とは?簡単に説明
「濃姫」は斎藤道三の娘として生まれ、母である小見の方は信長を暗殺する事になる明智光秀の叔母に当たり、「濃姫」と光秀は親戚関係であったとされていますが、両者の出生自体が諸説あるため、詳細な関係は分かっていません。
1535年に生まれたとされる記述が存在しますが、「濃姫」という名前も美濃国から来た姫という通称であるため、本名ではありません。
「帰蝶」や「胡蝶」が本名であったとされる文献も存在していますが、正確な本名については創作されてものも多く含まれており、確証はありません。
信長の父であった信秀との戦で敗北した道三は、和睦の証として娘であった「濃姫」を信長の妻として差し出しますが、この記述以降、当時の文献や書物から「濃姫」が言及される事は無くなります。
斎藤道三の菩提寺である常在寺に、道三の肖像画を寄進したとの言い伝えが寺にあるものの、それ以降の記録は一切不明です。
「濃姫」の死に様
「濃姫」の死に様や死因、没年日については当時の文献から「濃姫」の名前が完全に消えているため、様々な説が唱えられていますが、仮説や憶測、推論である事がほとんどで、確実には至っていません。
有名な説として、本能寺の変で信長と共に戦い自害したとされる説があります。
本能寺の変を描いた絵画や浮世絵等に、槍を持って信長と共に戦う「濃姫」の姿が描かれた物が数点存在しますが、史料としてこの記述がなされた文献は無く、創作であると考えられていました。
しかし、本能寺の変の際に「濃姫」の髪を家臣が持ち帰り建てたとされる墓が、岐阜市に存在します。
これは「濃姫」が死亡したと見せかけるために建てた墓ではないかとも言われており、事実については推測の域を超えていません。
その他にも20歳ほどの若さで病死したのではないかという説、本能寺の変の際に逃げ延びて生存したという説などが存在しますが、どの説も推測の域を出ず、現在でも議論されています。
「濃姫」と「安土殿」は同一人物だった?
近年「濃姫」は「安土殿」という人物と同一人物であり、信長の死後も生き延びたという説が唱えられており、当時の文献において「安土殿」の法名に信長を思わせる記述が存在しているとされています。
これが事実であれば、当時としては非常に長寿である78歳まで生きていた事になりますが、この説に関しても現在議論されており、確証を得ていません。
まとめ
非常に謎の多い人物「濃姫」ですが、現在でも様々な説が議論されており、その死に際は定かではありません。
これからの研究で、「濃姫」の謎が解ける事を期待したいところです。