「石川数正」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「石川数正」の死に際とは?日本の人物

「徳川家康」の重臣として仕えた後、突如として「豊臣秀吉」へ寝返った「石川数正」ですが、謎の出奔の末にどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「石川数正」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「石川数正(いしかわ かずまさ)」とは?簡単に説明

「石川数正」は三河国(現在の愛知県東部)で生まれ、「徳川家康」がまだ幼少のころより家来として仕えていました。

やがて、「徳川家康」に重役である家老に任じられ、徳川家臣として「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」など主要な戦に参陣して、多くの戦功を挙げていきました。

やがて、「羽柴秀吉」の天下が近づいてくると、秀吉方との交渉役に抜擢されます。

天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」にも参戦し、後に和睦交渉を担当したとされています。

そして、翌年に突如、徳川家を出奔し、秀吉方へ寝返りました。



「石川数正」の晩年と最期

「羽柴秀吉」に下った後は、河内国内で8万石を与えられ、大名として召し抱えられました。

この時、「羽柴秀吉」より偏諱(へんき)を賜り(将軍や大名などが、臣下に対して自分の名前の一字を与えること)、「出雲守吉輝」を名乗ったとされています。

その後も、秀吉の家臣として「九州征伐」「小田原征伐」など主要な戦場に身を投じます。

「豊臣秀吉」による天下統一後、文禄2年(1592年)の「文禄の役」(朝鮮出兵)に際し、500騎を率いて肥前国(現在の佐賀県と長崎県に相当)の「名護屋」に出陣するも、陣中にて死去したとされています。



「石川数正」の死に様の信憑性

「石川数正」の没年に関しては、未だ定かとなっていません。

文禄2年(1593年)に、享年61歳で死没したとする説や、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原にて葬儀が行われた記録が「言経卿記(ときつねきょうき)」に残っているため、もっと前に死没したとする説もあります。

謎に包まれた石川数正の出奔

天正13年(1585年)に突如として徳川家から「羽柴秀吉」の下へ出奔した「石川数正」ですが、その理由については諸説挙げられるも謎のままとなっています。

・交渉役として接するうちに、「羽柴秀吉」に惹かれて自ら寝返ったとする説。

・恩賞などで「羽柴秀吉」に口説き落とされて、寝返ったとする説。

「徳川家康」のスパイとして「羽柴秀吉」へ寝返ったとする説。

・自身が後見人を務めていた「徳川家康」の嫡男「徳川信康」が切腹させられた折、「徳川家康」との関係に軋轢が生じていたとする説。

まとめ

「石川数正」は、「徳川家康」が幼少の頃より仕え、徳川家臣として主要な戦場にて活躍を果たしていました。

その後、突如として徳川家を離反して、「羽柴秀吉」の下へ出奔します。

秀吉の家臣としても各戦に参陣しますが、「文禄の役」の際に、出張先の陣中にて死去します。

没年に関しては未だに定かとなっていません。

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