この記事では、三島由紀夫の晩年と最期について紹介します。
三島由紀夫とは?
三島由紀夫とは、日本を代表する作家の一人です。
東京大学の法学部を卒業し、創作活動に専念します。
1949年に長編小説「仮面の告白」を発表し、文壇でその地位を確立しました。
その後、「愛の渇き」や「禁色」といった問題作を次々と発表していきました。
1956年に発表した「金閣寺」は三島由紀夫の代表作として知られ、鹿苑寺金閣に魅せられた少年が金閣に支配された自分の「生」を取り戻すために金閣に放火するという難解な物語です。
三島由紀夫の晩年
三島由紀夫は晩年、ナショナリズムに傾倒するようになります。
独自の文化防衛論を説くようになり、「憂国」や「英霊の声」「太陽と鉄」「豊饒の海」といった作品を発表しました。
また、自衛隊に体験入隊し、祖国防衛隊を結成します。
祖国防衛隊とは、日本の文化と伝統を守るための市民による組織です。
その後「楯の会」という名称に変更されています。
「楯の会」という名前は、万葉集に登場する歌に由来します。
また、「葉隠入門」や「文化防衛論」といった論評も発表しており、戦後の民主主義を批判しました。
三島由紀夫の死に様
三島由紀夫は1970年11月25日、楯の会のメンバーと共に陸上自衛隊駐屯地を訪れます。
そして総監である益田兼利を縛って監禁し、総監室を占拠しました。
バルコニーで自衛隊員に決起を呼びかける演説を行います。
自衛隊を国軍とするよう憲法改正を求めたのでした。
しかし、自衛隊員からは相手にされず、野次が飛び交っていたといわれています。
三島はバルコニーから総監室に戻り、割腹自殺を遂げました。
享年45です。
三島由紀夫の死に様の信憑性
三島由紀夫が割腹自殺を遂げた事件は、三島事件と呼ばれています。
国際的にも著名な作家があのような最期を遂げたというニュースは国内外に衝撃を持って受け止められました。
切腹した三島を楯の会のメンバーの森田が介錯しようとしますが上手くいかず、三島が生きていたため他のメンバーの古賀が介錯しています。
森田も三島と同様に割腹自殺をしており、古賀が介錯しました。
かなり凄惨な現場となったため、テレビなどでも報道が規制されました。
まとめ
三島由紀夫は晩年、ナショナリズムに傾倒します。
陸上自衛隊の駐屯地において自衛隊を国軍にするための憲法改正を訴え、割腹自殺をしました。
享年45です。