テレビの世界から国政へ「宮田輝」の死に際とは?
この記事では宮田輝の晩年と死に際について解説していきます。
「宮田輝」とは?簡単に説明
昨今ではタレント・有名人が国政の場にうって出ることも珍しくありません。
宮田氏はいわばそのはしりだと言っていいでしょう。
定年も近くなったもの人たらしと言われた「田中角栄」氏に口説かれた形で自民党から参議院へと出馬しています。
トップ当選を果たすと3期に渡り国政に参加。
大平政権下では農林水産政務次官、また通信委員会で8年に渡って電電改革三法や新時代の通信の在り方の推進に取り組んでいます。
「宮田輝」の晩年
1986年7月には第14回参議院議員通常選挙比例区で3度目の当選、比例代表制度になってからは2度目の選出となりました。
比例代表50枠の50番目という薄氷ではあったもの当選後は精力的な活動に従事しています。
1988年11月に参議院シンガポール共和国訪問議員団の団長として渡航。
現地出張中に倒れて議員団を離脱して日本へと帰国、入院生活を送ることになりました。
一時は快方へ向かうも再度悪化。
議員生命はおろか自身の命すら危うくなっていました。
療養に専念する暇を与えるものかとばかり猛烈なスピードで病は宮田氏の身体を蝕んでいきます。
「宮田輝」の死に様
1990年7月15日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で逝去。
68歳没。
死因は呼吸不全によるものでした。
一度は回復の気配が見られたもの89年年末に体調不良を起こして再度入院。
最後まで復帰への意欲を棄てずに闘病生活を送ったもの力尽きる事になってしまいました。
闘病生活の詳細についてはほとんど公表されていません。
「宮田輝」の死に様の信憑よ
宮田氏の死は当然ながら国会でも触れられており、90年10月12日の第119回参議院本会議の冒頭で弔詞が捧げられています。
シンガポール訪問中のアクシデントから帰国後は車椅子で当院するほどの執念を見せていたもの89年年末には再度入院した事が明かされました。
これらは会議録にも収められており信憑性は高いといえるでしょう。
闘病生活については公表されていない部分がほとんどでした。
しかし近年NHKチーフアナウンサーの「古谷敏郎」氏による『評伝宮田輝』が発刊。
同著の第8章「参議院議員宮田輝」ならびに第9章「祭りのあと」で晩年と最期の時間窺い知る事ができるでしょう。
まとめ
1990年7月15日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で永眠しています。
68歳没。
死因は呼吸不全によるものでした。
88年11月の体調不良に端を発した闘病生活は20ヶ月近くに及ぶものになっています。
世の中が昭和から平成になって2年目。
敗戦間もない時期から全国放送で活躍していた宮田氏の死は改めて世間に昭和の終焉を感じさせる出来事になりました。