大人気を博した時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」のモデルは、第8代将軍の徳川吉宗です。
中興の祖と呼ばれた名君として有名ですが、どのような晩年と最期を送ったのでしょうか。
徳川吉宗とは?
徳川吉宗は、徳川御三家の一つである紀州藩の藩主・徳川光貞の四男として生まれました。
兄達が相次いで亡くなったために紀州藩主となり、当時財政状況が最悪だった藩の立て直しを図り実績を上げます。
7代将軍の徳川家継が亡くなると、財政再建の手腕を見込まれ第8代将軍に就任することになりました。
そして将軍になると享保の改革を実施します。
米価対策に尽力したので、米公方とも呼ばれていました。
徳川吉宗の晩年
徳川吉宗は、将軍職を長男である徳川家重に譲った後も大御所として政治の実権を握ります。
家重は将軍としての資質に問題があったといわれており、生まれつき虚弱で言語も不明瞭だったとされます。
そのため隠居したからといって、息子に政治を任せるというわけにはいかなかったのかもしれません。
また、吉宗は紀州藩の藩主だった時代から藩の財政健全化を目指して質素倹約を徹底しており、自らもその姿勢は生涯変わりませんでした。
将軍になってからも大御所になっても、質素な生活を送ったといわれています。
徳川吉宗の最期
徳川吉宗が亡くなったのは、寛永4年のことです。
将軍職を家重に譲ってから6年後のことでした。
享年68で、脳卒中が死因といわれています。
当時は中風と呼ばれていました。
脳卒中は脳の血管が破れたり詰まったりすることで後遺症が出たり、最悪の場合には命を落としたりする病気です。
吉宗が脳卒中を起こすのは初めてではなく、2度目だったといわれています。
最初の時には右半身が麻痺し、言語障害が発生したという記録もあります。
この時は無事に回復することができましたが、2度目の脳卒中では死去することになりました。
徳川吉宗を悩ませた跡継ぎ問題
晩年、徳川吉宗を悩ませたのは跡継ぎ問題です。
吉宗は正室との間に子供はいませんでしたが、側室との間に家重・宗武・源三・宗尹といった男児を設けています。
長男は家重ですが、将軍としての資質には大きな問題がありました。
それに対して次男の宗武は聡明と評判で、宗武を将軍に押す声もあったのです。
しかし、吉宗は長男がいながら次男に跡を継がせるのは無用な争いを招くと考えたのか、家重を後継者に決定します。
吉宗の晩年、息子である家重は何かと悩みの種でした。
徳川吉宗にまつわる逸話
徳川吉宗の功績で現代の人々にも関わっているのは、隅田川沿いの桜です。
桜を植樹して庶民の花見を推奨しました。
なぜ桜を植えたのかというと、火事が多かった江戸の町で火除け地を作るためでした。
それが現代にもつながる花見の名所をつくったのです。
まとめ
徳川慶喜は、隠居して長男に将軍職を譲ってからも大御所として実験を握りました。
脳卒中に見舞われ一度は回復しますが、二度目の脳卒中で亡くなりました。