とくがわ~教師びんびん物語でブレイクした阿藤快の最期とは?この記事では阿藤快の晩年と最期について解説します。
「阿藤快」とは?簡単に説明
年齢によっては亡くなった時に阿藤海じゃなかった?と驚く人もいたように、元々は阿藤海を名乗っており、2001年に改名しています。
長らくテレビではチョイ役としての認知度しかなかったもの「田原俊彦」氏が再ブレイクした『教師びんびん物語』の徳川龍之介の暴走に振り回され、キレる演技で人気を呼び、個性派俳優としての地位を確立しました。
四十路を過ぎてのブレイク以降はテレビ、CM、旅番組のリポーターと代表作がすぐに思い浮かぶほどの人気を得ています。
「阿藤快」の晩年
テレビドラマや映画への出演はそれなりにあったもの、出演は多くはありません。
2009年に『阿藤 快のぶらり“ 快”的うまい旅』で初冠番組。
日テレ系の『ぶらり途中下車の旅』『遠くへ行きたい』そして静岡ローカル『静岡・遠くへ行きたい』はいずれも旅レポーター役として活躍。
これにより茶の間では旅レポーター、そして食レポの達人。
その認識が極めて強く残るようになったのは間違いないでしょう。
「阿藤快」の死に様
マスコミにその死去が報じられたのは2015年11月17日の朝刊のことでした。
同年11月15日午後に事務所スタッフと実妹が自宅を訪問。
寝室で寝たまま亡くなっている姿が発見されています。
推定死亡日時は誕生日の11月14日。
死因は大動脈破裂胸腔内出血によるものでした。
69歳没。
「阿藤快」の死に様の信憑性
週明けの11月10日から五連休でしたが背中の痛みを以前から訴えており、8日にマッサージへ行き、痛みが取れたとスタッフに話していますが、これが前兆だった可能性は極めて高いと言えるでしょう。
13日には菓子を発送し、夜スタッフと電話で打ち合わせたため、亡くなったのは14日以降だと推測されます。
14日は誕生日で関係者や家族が祝福のメールを送ったもの返信がないのを不審に思い、夜に自宅を訪れましたが応答がなく、その時には中には入らなかったことも明かされています。
このため亡くなったのは13日夜半から14日の朝方だと言っていいでしょう。
部屋のカーテンも閉じられたままでした。
まとめ
「阿藤快」は2015年11月14日に死亡したと推測されます。
69歳没。
死因は大動脈破裂胸腔内出血だとされますが、シーツや布団に乱れた様子はなく、苦しんだ様子はなかったようです。
以前から高血圧の数値が高い以外は特に持病もなかったとされます。
しかし11月の全国行脚中に背中の痛みを訴えており、湿布でカバーして仕事を消化していました。
実際行脚ラスト8日の福岡でマッサージを受けて快方したと本人は語っていたようです。
事務所のスタッフも心配しており、9日からの五連休中に診療を受けるように薦めていました。
13日夜までは生存の痕跡が見られるため、亡くなったのはほぼ13日深夜~14日の就寝中だと推測されています。
五連休の最初に診療を受けていれば最悪の事態は防げていたかもしれません。