この記事では、「中村紘子」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「中村紘子」とは?
「中村紘子」とは、日本を代表するピアニストの1人です。
3歳からピアノを始め、ジュリアード音楽院に進学しました。
1965ショパン国際ピアノコンクールに入賞します。
日本人が入賞したのは、田中希代子が入賞して以来10年ぶりのことでした。
その後は、日本だけではなく世界各国で演奏活動を行っています。
また、国際コンクールの審査員も多数行っていました。
チャリティーコンサート等のボランティア活動にも積極的に取り組んでいます。
「中村紘子」の晩年
「中村紘子」は晩年もピアニストとして演奏活動を行っていますが、ピアニストの育成にも力を入れて取り組んでいました。
浜松ピアノ国際コンクールでは、3回目から審査委員長を務めています。
コンクールの創設からわずか10年で国際ピアノコンクール連盟に加入しており、国際的なコンクールとしてのレベルを上げるために尽力しました。
また、長年の音楽界における功績が認められ、2008年には紫綬褒章を受章しています。
それから「中村紘子」は作家やエッセイストとしての一面もあり、「チャイコフスキー・コンクール」や「ピアニストという蛮族がいる」等の著作を残しています。
晩年にも「ピアニストだって冒険する」というエッセイを出版しています。
「中村紘子」の死に様
「中村紘子」は、2014年に大腸がんであることが判明します。
腸閉塞のために腹腔鏡手術を受け、がんが発見されたのです。
大腸がんの治療を行っており、治療に専念するために演奏活動は休止しました。
2016年5月にコンサートに復帰しますが、7月には亡くなってしまいます。
72歳の誕生日の翌日でした。
「中村紘子」の死に様の信憑性
「中村紘子」は亡くなる前日も、モーツァルトやラフマニノフの曲の音色に輝きを出す新しい奏法を試したいと夫に興奮気味に語っていたといいます。
亡くなる間際まで、音楽やピアノに対する情熱を燃やし続けていたのは間違いありません。
「中村紘子」の夫は芥川賞作家の庄司薫で、子どもはないもののとても夫婦仲は良かったといいます。
「中村紘子」の72歳の誕生日も夫婦で祝ったところでした。
まとめ
「中村紘子」は晩年、ピアニストとして演奏活動を行ったり若いピアニストの育成に力を入れたりしていました。
しかし、大腸がんを患い治療に専念します。
その後、コンサートに復帰しますが72歳で亡くなりました。