「徳川家宣」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「徳川家宣」の死に際とは?日本の人物

歴代最高齢で任官しつつも、わずかな任期で逝去した第6代(イケメン)将軍「徳川家宣」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「徳川家宣」の晩年や最期について分かりやすく説明していきます。

「徳川家宣(とくがわ いえのぶ)」とは?簡単に説明

「徳川家宣」は江戸幕府第6代将軍となった人物です。

第3代将軍「家光」の三男「綱重(つなしげ)」の嫡男として生まれますが、母親の身分が低かったため、一度は家臣の家に養子として出されます。

父に呼び戻され後、跡取りのいなかった第4代将軍「家綱」の後継者に推挙されますが、別候補であった「綱吉」が選ばれました。

その後、「綱吉」にも跡取りがいなかったことから、「家光」の孫である「徳川家宣」は再び後継者候補に挙げられます。

そして、宝永6年(1709年)、48歳にして晴れて第6代将軍に就任することになりました。

「徳川家宣」の晩年と最期

将軍に就任した後は、文官の登用を積極的に行い、先代将軍「家綱」「綱吉」から続く「文治政治」を執り行っていきました。

特に側用人「間部詮房(まなべ あきふさ)」と学者「新井白石(あらい はくせき)」を重用し、「綱吉」によって制定されるも、民衆が不満を募らせていた「生類憐みの令」「酒税」を廃止します。

また、同じく民衆からの評判が悪かった「宝永通宝」も鋳造、および使用を禁止としました。

対外政策においては、琉球や李氏朝鮮との外交を推進していきます。

これらは、「正徳の治」と呼ばれ、後世に善政として評価されることになりました。

その最中、正徳2年(1712年)に病床に臥してしまいます。

同年9月に「間部詮房」「新井白石」に将軍の跡継ぎに関する遺言を残した後、10月14日(11月22日)に享年51歳で死去しました。

将軍就任からわずか3年後のことでした。

「徳川家宣」の死に様の信憑性

死因は、流行性の感冒、今で言うところの「インフルエンザ」ではないかと云われています。

イケメン将軍「徳川家宣」

遺骨の調査から「徳川家宣」は鼻筋の通った美男であったとされ、背丈も当時としてはやや高めの160cmとされています。

性格に関しても、 ・虚偽の報告がバレて、切腹が言い渡された家臣の助命を自ら嘆願し、減刑にした。

・自分に取り入ろうと贈られてきた賄賂まがいの祝い品を全て拒否し、不正は厳しく取り締まった。

などのエピソードが伝わっています。

庶民の意見を元に政治改革を行ったことからも分かるように、慈悲深く高潔な人物であったようです。

まとめ

「徳川家宣」は江戸幕府第6代将軍となった人物です。

文官を積極的に登用し、「正徳の治」と呼ばれる善政を敷いていきました。

ところが、将軍就任からわずか3年後の正徳2年(1712年)に病に倒れ、同年10月14日(11月22日)に51年の生涯に幕を下ろします。

死因は、流行性の感冒(=インフルエンザ)ではないかとされています。

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