「神戸一郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「神戸一郎」の死に際とは?日本の人物

リバイバル版青い山脈の歌い手「神戸一郎」の死に際とは?

この記事では神戸一郎の晩年と死に際について解説していきます。

「神戸一郎」とは?簡単に説明

芸名は戦前から戦後にかけて活躍した国民的歌手である「藤山一郎」氏に因んでのもの。

その声と歌の上手さが藤山氏の様であった事と出身地神戸を合わせたものでした。

2作目の『銀座九丁目水の上』はヒット曲となり、キャリア1年目で『NHK紅白歌合戦』に出場しています。

歌手名の由来となった藤山氏の『青い山脈』を歌う事になったのは1963年のこと。

配給会社が東宝から日活へと変更された同作の主題歌を「青山和子」氏とともに歌いあげました。



「神戸一郎」の晩年

コロムビアの専属歌手としてデビューしたもの契約が切れると1965年にポリドールへ移籍。

しかしデビュー後数年間のようなヒット曲には恵まれる事はありませんでした。

またその甘いマスクから東宝の青春映画の常連でもありましたが、1960年をピークにして出演数は減っていました。

80年代半ばにはクラウンレコードに移籍、数枚のシングル曲を出しますが、ほぼリタイア状態だったと言っていいでしょう。

86年の『あじさいの花』のリリースを最後に完全に表舞台からは姿を消しています。



「神戸一郎」の死に様

2014年4月27日17時50分、東京都世田谷区深沢5丁目の自宅で永眠。

75歳没。

死因は前立腺がんと公表がされています。

「神戸一郎」の死に様の信憑性

1966年前後に1度は芸能界を離れていますが、商売が軌道に乗らず85年に歌の世界へ復帰。

しかし86年を最後に再度芸能界を引退し、実業家に専念したと思われます。

そのため死に様に関する情報は殆ど公表されていないのが現状でしょう。

本名の「前原正捷」で調べても全く情報は得られませんでした。

青い山脈でデュエットした青山氏が「神戸たかし」氏と結婚されていますが完全な別人。

喪主は弟の「姿映二」こと「前原正臣」氏が務めています。

正臣氏とは全盛時から世田谷で同居していたとされます。

結婚して子供もいるとの情報がありますが、喪主を正臣氏が務めている事もあり信憑性が高いとは言えないでしょう。

まとめ

2014年4月27日17時50分、東京都世田谷区深沢5丁目の自宅で最期の時を迎えました。

75歳没。

死因は前立腺がんでした。

既に完全に芸能界から引退していたこともあり、闘病生活等については一切公表がされていません。

そのため亡くなった際も約1週間後の5月3日になってから報道がされています。

弟の正臣氏も既に亡くなっているため、今後も新しい情報が出てくる可能性は極めて低いと言えるでしょう。

タイトルとURLをコピーしました