関西・西の歌姫・庶民派スタァお恵ちゃん、松山恵子の晩年と最期とは?
この記事では松山恵子の晩年とその最期に迫ります。
「松山恵子」とは?簡単に説明
戦争の爪痕がまだ残っている1955年にデビューすると瞬く間にスターダムへ駆け上がったのが松山恵子と言っていいでしょう。
同い年で横浜出身の美空ひばり、1つ下で東京育ちの島倉千代子が東の歌姫だとすれば、九州出身・大阪育ちの彼女は西の歌姫だと言って過言ではありません。
1969年に交通事故に遭うまでは紅白歌合戦に連続7回出演するなど、昭和30年代を代表する歌手の一人だと言っていいはずです。
代表曲は「未練の波止場」など多数。
また紅白でのド派手な衣装は小林幸子らにインスパイアされていくこととなりました。
「松山恵子」の晩年
テレビに登場する機会はテレビ東京で恒例となっている「年忘れにっぽんの歌」やNHKの「思い出のメロディー」が多かったものの最晩年まで歌手として歌い続ける人生だったと言えるでしょう。
その最もたるものが10年に渡る闘病生活を告白した番組でした。
そこでC型肝炎からの肝臓がんを公表。
その直後には入院するとともに、長年連れ添ったマネージャーと養子縁組を行っています。
また死期を悟りながらも、初夏には新曲の発売予定も組まれていました。
「松山恵子」の死に様
2006年2月にNHKのデジタルハイビジョン番組内で10年来のC型肝炎との闘病生活を告白。
翌3月11日にはテレビ埼玉の番組に出演しますが、支えられないと座っていられない状態でした。
この直後に入院し、加療を開始します。
しかし1969年の交通事故から実に40年にも渡って肝炎と闘ってきただけに最期の刻が近いと自分で理解したのでしょう。
4月にマネージャーを長年勤めた女性と養子縁組を行っています。
その矢先に容態が急変、5月7日6時7分に帰らぬ人となりました。
69才でした。
「松山恵子」の死に様の信憑性
養子縁組で長女となったマネージャーとファンも含めて14人に看取られて、眠るように息を引き取りました。
05年の秋より腹水が溜まるようになっていたもののプロ意識で衣装でカバー、可能な限り番組に出演。
また自身が思い入れのある作詞家・作曲家に依頼した新曲「人生ありがとう」ができあがったのは亡くなる直前で既に意識も覚束無い状態であったものの感涙に浸ったそうです。
まとめ
松山恵子は2006年5月7日6時7分に69才で永眠しています。
死因は1996年から患っていたC型肝炎から進行した肝臓がんでした。
10年前からとはいうものの実際は1959年にあった交通事故での輸血による肝炎がそのスタートであり、幾度となくその後遺症に苦しむも、最晩年までその事実を隠していたそうです。