史上最年少で将軍となり、史上最年少で死去した第7代将軍「徳川家継」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「徳川家継」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「徳川家継(とくがわ いえつぐ)」とは?簡単に説明
「徳川家継」は江戸幕府第7代将軍となった人物であり、第6代将軍「徳川家宣(とくがわ いえのぶ)」の四男です。
史上最年少で主任した将軍であり、史上最年少で死去した将軍として有名です。
「家宣」の子供はみな病弱だったため早世しており、「徳川家継」だけが生き残りました。
そんな「家宣」も病気で倒れてしまい、側近の「間部詮房(まなべ あきふさ)」と「新井白石(あらい はくせき)」に後継に関する遺言を残して死去します。
その後、「新井白石」の推し進めで「徳川家継」は将軍へと就任しました。
「徳川家継」の晩年と最期
将軍に就任するも、「徳川家継」は幼少だったため、父「家宣」の代より仕える「間部詮房」と「新井白石」主導の下で「正徳の改革」が続けられました。
正徳5年(1715年)に「霊元法皇」の皇女「八十宮」との婚約が成立します。
ところが、正徳6年(1716年)の3月より「徳川家継」は病床に臥すようになり、4月30日にわずか8歳の若さで病没しました。
当然ながら、「徳川家継」には世継ぎがいなかったため、第2代将軍「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」より続いてきた徳川宗家の血筋はここで断絶してしまいます。
「徳川家継」の死に様の信憑性
死因として、こじらせた風邪が悪化し、急性肺炎で死亡した説が有力視されています。
「徳川家継」にまつわるエピソード
最後に「徳川家継」にまつわるエピソードをご紹介します。
「間部詮房」との関係
父の死後、「徳川家継」は側用人の「間部詮房」を父のように慕っていました。
「詮房」が出先から戻ってくるときは、帰りを外で待ち、姿が見えると喜んで、抱きついていたそうです。
また、「詮房」の方も「徳川家継」を厳しく教育したとされ、他の家臣がはばかるようなことでもはっきり言及し、きつく叱ったこともあるそうです。
そのため、側の者が「越前殿(=詮房)が参られます」と言うと、ぐずっていた「徳川家継」はすぐに大人しくなったと云われています。
「徳川家継」巨人症説
歴代将軍の各位牌は、臨終時の背丈と同じに作られているとされています。
幼くして亡くなった「徳川家継」の位牌ですが、135cmもあることから巨人症だったのではないかとする説があります。
まとめ
「徳川家継」は江戸幕府第7代将軍となった人物です。
前将軍である父「家宣」の死後、わずか 5歳で将軍へと就任しました。
皇女との婚約が成立した矢先、正徳6年(1716年)の4月30日に8歳の若さで病没しました。
死去する前には風邪で病床に臥しており、死因は風邪が悪化した急性肺炎による説が有力とされています。
「徳川家継」の死去により、徳川宗家の血筋は途絶えることになりました。