「島津忠良」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「島津忠良」の死に際とは?日本の人物

「島津家中興の祖」として戦国大名「島津氏」の礎を築いた「島津忠良」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「島津忠良」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「島津忠良(しまづ ただよし)」とは?簡単に説明

「島津忠良」は戦国大名としての島津家の初代であり、同時に礎を築いたとされる戦国武将です。

出家後の「日新斎(じっしんさい)」の名でも知られています。

嫡男は「島津の英主」とも称えられる「島津貴久(しまづ たかひさ)」であり、その子供たちである「島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)」は孫にあたります。

島津家の分家に生まれますが、その後、息子「貴久」の島津宗家継承を巡る内紛が勃発します。

十年以上に渡る戦いの末、「貴久」の島津宗家継承、守護職就任を成就させました。

薩摩統一を果たした後は隠居へと入ります。



「島津忠良」の晩年と最期

隠居後も実権は掌握し続け、内政においては城下町の整備や、養蚕をはじめとした産業を興します。

対外政策においては、琉球を通じた明との貿易を推し進めました。

特に儒教的思想を元にした領内の教育は、島津家を九州の一大勢力にせしめる「島津四兄弟」をはじめ、「郷中教育」と呼ばれる後の薩摩藩士の教育法にも受け継がれていき、現代にまで影響を残しています。

これら「島津忠良」の政治は、島津家隆盛の基盤となったため「島津家中興の祖」として崇められました。

そして、才気溢れる孫たちへ期待を募らせる中、永禄11年(1568年)の12月13日に死去します。

享年77歳でした。



「島津忠良」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

日新公伊呂波(いろは)歌

「島津忠良」は幼い頃より「儒教」を学んでいました。

この「儒教」の道徳観は、「島津忠良」の教育論のベースとなり、これを教え説く際に、解りやすく、覚えやすいように工夫を凝らしたものが「日新公いろは歌」です。

この「日新公いろは歌」は、その後も薩摩藩において「郷中教育(ごじゅうきょういく)」として、藩士たちの教育の規範とされました。

・『い』・・・「いにしえの 道を聞きても唱えても わが行にせずばかひなし」(昔の賢者の教えは口で唱えるだけでなく、実践することが大事である)
・『ろ』・・・「楼の上も はにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき」(立派な屋敷に住もうが、粗末な小屋に住もうが、その人の価値は心が清く正しいかで決まる)
など

まとめ

「島津忠良」は戦国大名としての島津家初代となる戦国武将です。

巧みな政治手腕により、後の島津家の基盤を築き上げたことから「島津家中興の祖」とも称され、特に教育論については、その後も薩摩藩において大きく影響を与えました。

当代のみならず息子「貴久」や孫ら「島津四兄弟」たちも、その後の島津家隆盛に大きく貢献していきます。

そして、永禄11年(1568年)の12月13日に享年77歳で生涯に幕を下ろしました。

詳しい死因については定かとなっていません。

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