「上杉憲政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「上杉憲政」の死に際とは?日本の人物

後に越後の龍「上杉謙信」となる人物を養子に迎えた「上杉憲政」は、どのような最期を遂げたのでしょうか?

この記事では、「上杉憲政」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「上杉憲政(うえすぎ のりまさ)」とは?簡単に説明

「上杉憲政」は、上野国(現在の群馬県)の大名であり山内上杉家15代目当主だった人物です。

また、室町幕府より「関東管領」に任じられていました。

父の死や、家臣らによる謀の末に、わずか9歳で家督を継承し、「関東管領」に就任することになります。

その後は、「北条氏」「武田氏」と争いを繰り広げますが、相次ぐ敗北や家臣の離反により、「上杉憲政」は居城を放棄し、越後国(現在の新潟県)の「長尾景虎」(後の上杉謙信)を頼って落ち延びました。

その後、「長尾景虎」を養子として迎え、家督と関東管領職を譲渡しました。

「上杉憲政」の晩年と最期

天正6年(1578年)に「上杉謙信」が死去します。

「上杉謙信」には実子がいなかったことから、養子である「上杉景虎(うえすぎ かげとら)」「上杉景勝(うえすぎ かげかつ)」のあいだで家督相続を巡った内紛「御舘(おたて)の乱」が起きました。

この時、「上杉憲政」「北条氏」との関係に気を使って「北条氏康(ほうじょう うじやす)」の七男だった「上杉影虎」に味方したと言われています。

その後、「武田勝頼(たけだ かつより)」の支援を得たこともあり、情勢は「上杉景勝」が優位となっていきました。

そして、翌天正7年(1579年)に「上杉憲政」「上杉景虎」の嫡男「道満丸」を連れて、「上杉景勝」のいる春日山城へ和睦交渉に向かいますが、そこで景勝方の武士2人によって殺害されます。

享年57歳でした。

「上杉憲政」の死に様の信憑性

死に際については、「上杉景勝」方の武士に討たれたとする説のほかに、四ツ屋付近で敵に囲まれたところを自刃して果てたとする説もあるようです。

「上杉憲政」のお墓は、「上杉景勝」の転封先である現在の山形県米沢市「照陽寺」の境内にあります。

「上杉憲政」の評価

「武田信玄」で有名な甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田氏」の戦術、及び戦略を記した軍用書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」では、「上杉憲政」は大軍を率いたにもかかわらず、お家を滅ぼした人物と評されています。

また、「北条氏康」との数度に渡る戦いにおいて、「相手を軽んじ、自分は出陣せずに家臣任せにしていたことから、一度も勝つことができなかった」と批評されています。

まとめ

「上杉憲政」は山内上杉家15代目当主であり、関東管領職を務めた戦国大名です。

その後、「上杉謙信」を養子として迎え、同時に家督と関東管領職を譲渡しています。

「上杉謙信」の死後、家督争いが発生した折、「上杉憲政」は敵方へ和睦交渉に向かいますが、そこで敵方の武士に討ち取られました(自刃したとする説もあるようです)。

享年57歳でした。

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