江戸幕府のために貢献を果たした陸奥三春藩初代藩主「秋田俊季」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「秋田俊季」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「秋田俊季(あきた としすえ)」とは?簡単に説明
「秋田俊季」は秋田家3代目当主である大名です。
常陸宍戸藩主となった後に陸奥三春藩主となりました。
慶長3年(1598年)に戦国大名秋田家の長男として生を受けます。
「秋田俊季」の母である「円光院」は「織田信長」の孫にあたり、2代将軍「徳川秀忠」夫人の従姉妹でもありました。
そのため、「秋田俊季」も幼い頃より徳川将軍家と接点があったと云われています。
「大阪の陣」への参戦や普請(幕府の命による土木建築工事)の手伝い、3代将軍「徳川家光」の上洛に付き従うなど江戸幕府のために献身しました。
「秋田俊季」の晩年と最期
常陸宍戸藩に移封された父「実季(さねすえ)」でしたが、幕府との間に軋轢が生じ、寛永8年(1631年)に失脚、領地は没収され、伊勢国朝熊への蟄居を命じられます。
「秋田俊季」は幕府より秋田家の家督相続を命じられ、同時に常陸宍戸藩主となりました。
普通ならば、長男である「秋田俊季」も処罰を受けるはずですが、何のお咎めもなく領地をそのまま相続できたのは、先述した幼い頃よりの徳川将軍家との関わりが影響していたのかもしれません。
また、「秋田俊季」と「実季」の父子関係は非常に険悪だったと云われています。
理由には、「実季」の金銭感覚や徳川将軍家のために忠節を尽くす「秋田俊季」を「実季」が嫌っていたことなど諸説挙げられているようです。
正保2年(1645年)の8月、「秋田俊季」は陸奥国三春藩5万5千石に移封されます。
そして、三春藩主になってから数年後の慶安2年(1649年)の1月3日に享年52歳で病死しました。
「秋田俊季」の死に様の信憑性
勤番のためにいた大阪城にて病死したとされていますが、詳しい死因については定かとなっていません。
三春藩主となった「秋田俊季」ですが、三春の地で過ごした時間はほとんどなかったようです。
福島県田村郡三春町にある高乾院は秋田家の菩提寺の1つであり、「秋田俊季」は境内にある秋田家代々の墓に眠っています。
愛煙家だった「秋田俊季」
三春藩主を歴任した秋田氏に関する記述が収められている「秋之夜之夢噺」には「秋田俊季」が大のタバコ好きだったことが窺える話が記されています。
狩りへ出掛けた際は、馬の口取り役のキセルでタバコを吸っていたなど相当な愛煙家だったようです。
まとめ
「秋田俊季」は常陸宍戸藩主や陸奥三春藩主を務めた秋田家3代目当主です。
江戸幕府のために忠節を尽くし、父が蟄居となった後、幕命により秋田家の家督と常陸宍戸藩を相続しました。
正保2年(1645年)に陸奥国三春藩主となりますが、それから数年後の慶安2年(1649年)1月3日に病死します。
享年52歳でした。